1905年12月22日 全ロシア混乱 ウィッテ伯ついに普通選挙を許す

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.550

(明治38年12月22日付 東京朝日新聞)(21日ワシントン発電)
 ロシア全土にわたる同盟罷業(ゼネスト)が、木曜日(12月中旬)に正式に宣言され、その影響により、鉄道や電信の運行・通信が停止するなど、国内は大混乱に陥っている。ロシア皇帝(ツァーリ、ニコライ二世)は、兵士たちの給料と食糧を増やす詔勅(しょうちょく)を発布した。
 一方、カールランド州のテュカム(現ラトビア共和国ツクムス)では、百名のコサック兵(皇帝の親衛軍)が殺害され、その手足を切断されるという惨状が発生した。
 こうした国内の混乱と暴動の拡大を受け、首相ウィッテ伯爵(セルゲイ・ウィッテ)は、ついに「普通選挙の実施」を認める決心をした。

時代背景 ―「1905年ロシア革命」の真っただ中

 この記事は1905年(明治38年)12月、すなわち第一次ロシア革命の最高潮期の報道です。前年(1904年)から続いた日露戦争での敗北と、国内の貧困・労働争議・農民蜂起が重なり、ロシア帝国は政治的・社会的に完全な混乱に陥っていました。

「血の日曜日事件」から「ゼネスト」へ

 発端は同年1月の血の日曜日事件(Bloody Sunday)。首都ペテルブルクで、労働者たちが「皇帝に直訴」を試みた際、軍が発砲して多数が死傷しました。これを機に全国規模でストライキや蜂起が連鎖的に拡大し、年末には「全ロシア同盟罷業(ゼネラル・ストライキ)」という国家的麻痺状態に至りました。
 記事の「鉄道・電信が影響を受けた」とあるのは、まさに国家の交通と通信網が停止したことを指します。

「カアルランド州テュカムの虐殺」とは

 報道に出てくる「カアルランド州テュカム(Kurland / Tukums)」は、当時ロシア帝国領のバルト地方(現ラトビア)にあたります。この地域では、地主・官憲に対する農民暴動が激化し、鎮圧に出たコサック兵(ツァーリの親衛軍)までが反乱軍に襲撃される事態となりました。「手足を切断された」という記述は、当時の報道が伝える暴動の残酷さを象徴しています。

ウィッテ伯爵の決断 ―「十月勅令」から「普通選挙」へ

 この混乱の収拾を任されたのが、首相セルゲイ・ウィッテ伯爵(Sergei Witte)です。彼は日露戦争講和(ポーツマス条約)の全権代表として日本でも知られています。ウィッテは、ツァーリに「このままでは帝政が倒れる」と進言し、政治改革による鎮静策を取ります。
 1905年10月にはすでに「十月勅令(October Manifesto)」が出され、
  ・国会(ドゥーマ)の設置
  ・市民の自由の一部承認(言論・集会の自由)
が約束されていました。
 しかし、運用は曖昧で、依然として不満は収まらず、この記事の時点でウィッテはさらに一歩進めて、「普通選挙制による代表選出」を容認せざるを得なくなった、という流れです。つまり、この記事はロシア史上初めて、ツァーリ政府が「普通選挙」を正式に認める決断を下した瞬間を伝えています。

国際的意義 ―「専制ロシア」の崩壊の兆し

 この報道は日本にとっても大きなニュースでした。日露戦争で敗北したロシア帝国が、戦後わずか数か月で国内革命に追い込まれていることは、明治政府にとっても外交的に注視すべき重大事でした。新聞各紙はこの報を「ロシア専制の崩壊」「帝政の動揺」として取り上げ、日本の勝利の「副作用」として国民的に歓迎する論調が多かったのです。

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