(明治38年12月23日 東京朝日新聞)
「大同倶楽部」の結成は、わが国の政治界において、まるで突然現れた出来事のように見える。しかし、実際には決して突然生じたものではないことがわかる。本日の発会式(設立総会)で、どのような趣旨の宣言や声明が発せられるかは、まだ分からないけれども、おおよその事情は想像することができる。
今日、この倶楽部に約九十名の衆議院議員が集まっているという。その勢力は恐らく、山縣(有朋)派、すなわち桂太郎派(桂党)に属するものにほかなるまい。言うまでもなく、政友会(伊藤博文系)と進歩党(大隈重信系)という二大政党のいずれにも属さず、独立して活動していた議員たちが、今回を機に結集しようとしている。その背後にある理由は、誰の目にも明らかである。
これらの無所属議員たちは、これまで二大政党から軽んじられ、委員にも選ばれず、政治交渉にも加えられず、いつも議会の隅に追いやられていた。その屈辱に憤り、「ならば団結して対抗しよう」と決意したこと、これが大同倶楽部結成の一つの原因であることは疑いない。もっとも、それは比較的小さな原因であろう。
また、彼らが単独行動を取っていた間、上から降ってくる、いわゆる「運動費(政治資金)」を派閥の首領に取り込まれることもなく、自分たちの利益を保てたという事情もあった。しかし今や、桂太郎伯爵らが考えを改め、天皇の前で物質的な政治操作をやめ、ついには辞職を決意したということが、これら議員たちの中に「金銭よりも権力を求めよう」という気運を生じさせたのかもしれない。これもまた、一つの要因ではあるが、やはり小さなものである。
最大の要因は、桂伯らの周囲の人々が、衆議院の中に自派の結束を築く必要を感じ、辞職に際して有力な働きかけ(勧誘)を行ったことであろう。これこそが、「大同倶楽部」成立の最も大きな原因に違いない。すでに政局運営に失敗し、辞職に追い込まれた桂伯らが、なおこれほどの勢力を保っているという事実は、その背後に何らかの大きな理由があるはずだ。この「真の原因」については、今後の研究に委ねたい。
時代背景 ― 日露戦争直後の政界再編期
この記事が掲載された1905年(明治38年)12月は、日露戦争の講和(ポーツマス条約)成立から数か月後。日本国内では戦後不況と「講和に対する不満(いわゆる日比谷焼打事件)」の余波が続いており、政界でも激しい再編が進んでいました。当時の首相は桂太郎(山縣有朋系統の軍閥・官僚派)。桂は戦争を指導し、講和を成し遂げたものの、国民・政党からの批判が強まり、1906年1月に辞職することになります。この新聞記事は、まさにその「辞職直前」の政局を報じたものです。
「大同倶楽部」とは何か
「大同倶楽部」とは、1905年12月、桂太郎の政権を支援する目的で、無所属や中間派の議員たちが結成した院内会派(議員団体)です。
• 構成員:約90名(衆議院の約1/3)
• 性格:政友会(伊藤博文系)・進歩党(大隈重信系)に属さない中間派議員の集合体
• 実質的支持者:桂太郎、山縣有朋系の官僚・軍閥勢力
• 目的:二大政党に対抗し、桂・山縣系の政治勢力を国会内で支えること
「桂党」=官僚・軍閥系政権の政治的基盤
明治憲法下では、首相が議会多数派に基づかず、天皇の信任(元老の推薦)によって任命される仕組みでした。そのため、桂のような「非政党首相」は、議会の支持基盤を確保するために、無所属議員たちを糾合する必要がありました。この「院内勢力の補強」が大同倶楽部設立の核心です。
新聞記事の論調 ― 朝日新聞の批評的視点
この記事は、報道というより論評・分析記事(政治解説)です。東京朝日新聞は当時、進歩党寄りの自由主義的傾向が強く、官僚・軍閥系の桂政権には批判的でした。そのため本文では、
• 「表向きは独立議員の集まりに見えるが、実際は桂党の下部組織」
• 「桂の辞職を目前にしてなお勢力を保つのはなぜか?」
という皮肉と疑念を込めて報じています。
歴史的意義 ― のちの「桂園時代」への伏線
「大同倶楽部」は長く続かず、翌年には分裂しましたが、この流れはのちの「桂園時代(桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担当した時代)」の政治構造につながります。つまり、
• 政党政治がまだ未成熟な時代に、
• 官僚派(桂)と政党勢力(西園寺)が交互に政権を握る構造、
その「官僚派の院内勢力づくりの原型」が大同倶楽部だったのです。


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