(1905年(明治38年)12月29日、東京朝日新聞)
去る12月26日、呉海軍工廠で行われた一等装甲巡洋艦「筑波」の進水式の光景は、すでに電報で伝えられた通りであるが、当日現場に列席した海軍将校の話によれば、わが国の造船史をふり返ると、これまで建造した最大の軍艦は4,210トン級の「橋立」型であったものが、今回は一挙に11,700トンという巨大艦を建造し、その進水を行うという、まさに歴史的な日であった。
そのため、準備はもちろん、関係者の緊張ぶりは尋常ではなかった。しかも以前には一度、進水に失敗したことがあったため、関係者全員がまさに手に汗を握り、息を詰めて式を迎えた。朝から雨が降り続いていたが、幸い海は穏やかで、参列者は午前8時30分に集合。皇太子殿下(のちの大正天皇)は8時40分に、軍艦「磐手」から御召艇に乗船された。御召艇の指揮は鈴木少佐がとり、白井兵曹長が艇長を務め、山田少将が先導した。殿下の御召艇が進み始めると、港内に停泊する軍艦「磐手」をはじめ、「常磐」「富士」「浅間」「春日」「千代田」「鎮遠」「岩見」「明石」「筑紫」「大和」「姉川」「龍田」などの各艦が一斉に皇礼砲(祝砲)を放ち、艦長たちは供奉して拝礼した。
殿下が上陸されると、式典の次第に従って進水の儀が行われた。この間、関係者の表情は厳粛をきわめ、まるで荘厳な緊張感に包まれていた。やがて「進水せよ」との命令が下ると、巨艦はゆるやかに動き始め、なだらかに進行し、まるで小山のような大艦が一直線に海へと滑り出した。その瞬間、水しぶきが高く上がり、紅白の吹流しと花びらがきらめきながら風に舞い、五色の鳩が空へと飛び立った。周囲の軍艦は次々と汽笛を鳴らし、観衆の歓声は天地を揺るがすほどであった。
皇太子殿下はきわめて満足そうにご覧になり、関係者一同はようやく胸をなでおろし、喜びを抑えきれぬ様子であった。こうして式は無事に終わり、この東洋最大の装甲巡洋艦「筑波」の進水は、ただちに世界各国へ電報で報じられたのであった。
1. 「筑波」の進水式とは
この記事が報じているのは、1905年(明治38年)12月26日、呉海軍工廠で行われた装甲巡洋艦「筑波」の進水式です。この艦は日本が日露戦争勝利直後に建造した、国産初の一万トン級大型巡洋艦であり、日本造船史上の重要な転換点を示すものでした。
2. 「筑波型装甲巡洋艦」とは
• 艦名:筑波(Tsukuba)
• 排水量:約13,750トン(設計当初は11,700トン)
• 主砲:30.5cm連装砲2基
• 建造所:呉海軍工廠
• 起工:1905年1月
• 進水:1905年12月26日
• 竣工:1907年1月
この艦は、英国設計を手本に日本が独自設計で建造した初の大型艦であり、日露戦争で得た技術と経験を集大成した「国産大型軍艦第一号」でした。
3. 「過般の失敗」とは何か
記事中にある「過般の失敗」とは、同じ呉海軍工廠での以前の進水事故を指します。呉では1905年初頭、艦艇の進水時にスリップ(船台)破損などの事故が起きており、「巨艦筑波の進水」に際しては、工廠・技術者ともに極度の緊張状態だったのです。
進水に失敗すれば国家の威信に関わるため、「異常の緊張」という表現が使われています。
4. 国産造船の誇りと国威発揚
それまで日本の大型艦はほとんどイギリス製でした。(例:「富士」「八島」「浅間」「常磐」など)
しかし「筑波」は完全国産の設計・建造。つまり「外国に頼らず、自国で大艦を造れるようになった」ことを意味します。
そのためこの記事は、単なる造船ニュースではなく、日本が列強と肩を並べる技術力を獲得した象徴的事件として報じられたものです。
5. 皇太子(大正天皇)の臨席
皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が臨席されたのは、国家事業としての重要性を示すものです。日露戦争勝利の直後というタイミングであり、「皇太子ご臨席」「鳩の放出」「紅白の吹流し」「各艦の祝砲」など、国家的祝典として演出されています。
この式典は、「日本が近代海軍国として自立した」ことを内外に誇示する政治的意味をも持っていました。
6. 世界的反響
記事の末尾にあるように、「世界各国に電報で伝えられた」という一文は誇張ではなく、当時の国際通信社を通じて、「Japan launches 11,000-ton armored cruiser Tsukuba」と英米メディアに実際に報じられました。
欧米では「日本がついに自国で大型艦を建造」として注目され、帝国日本の技術進展を示すニュースとして扱われました。


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