1905年12月22日 帝都騒擾(そうじょう/=暴動)の責任を負って桂内閣ついに崩壊す

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.550

(明治38年12月22日付 東京朝日新聞)
 昨日(21日)午前10時から、首相官邸において臨時閣議が開かれた。(元老たちは出席しなかった。)その席上で、桂首相は閣僚に向かって次のことを報告した。すなわち、去る19日に宮中に参内して、天皇に辞職の意向を奏上したこと、また、西園寺公望侯爵と数回会見して、内閣の後継について協議を重ねた結果、西園寺侯が快く後継者として内閣を組織することを承諾したことを伝えた。
 閣僚たちは、前回閣議での決定を踏まえ、西園寺侯がすぐに承諾したことを喜び賛同した。そして、陸軍・海軍の両大臣を除く全閣僚が辞職を願い出ることを決定し、それぞれが辞表を作成して、桂首相に一括して天皇への奉呈を託した。閣議は正午前に散会した。
 ただし、外務大臣の小村寿太郎は現在外遊中で、本月末に帰国予定のため、帰朝後に辞表を提出することとなった。(詳細は別項を参照のこと。)

日露戦争後の「勝って負けた」講和

 この報道が出たのは明治38年(1905年)12月22日。わずか3か月前(9月)に日露戦争講和条約(ポーツマス条約)が結ばれたばかりでした。しかし、条約の内容は国民にとって大きな失望をもたらしました。
  ・賠償金はゼロ
  ・領土の獲得は樺太南半分のみ
  ・莫大な犠牲に見合う成果がない
この結果、全国で政府に対する憤激が高まり、特に東京での「日比谷焼打ち事件」(1905年9月5日〜7日)は未曾有の大暴動となりました。

戒厳令と新聞弾圧、政府の失墜

 桂太郎内閣はこの暴動を鎮圧するため、東京に戒厳令を布告し、新聞各社の発行停止や検閲強化を断行しました。これにより、政府は一時的に秩序を回復しましたが、「民意を踏みにじる軍人内閣」「独裁的な長州閥政権」として激しい批判を浴びます。国民・議会・新聞の信頼を完全に失い、ついに桂太郎は辞意を固めました。

「帝都騒擾の責任を負って」=辞職理由の核心

 記事の見出しにある「帝都騒擾の責を負うて」とは、つまり「日比谷焼打ち事件などの国内騒乱の責任をとって内閣が崩壊した」という意味です。
 桂太郎は、
  ・講和の内容(国民の期待を裏切った)
  ・戒厳令(国民の自由を抑圧した)
という二重の理由から、政治的に行き詰まりました。

西園寺公望の登場と「桂園時代」の始まり

 後継として指名された西園寺公望(さいおんじ きんもち)は、伊藤博文の後継的存在で、政党政治・立憲主義を重んじる文治派のリーダーです。桂太郎(長州出身の軍人)とは対照的な人物でした。
 この政権交代により、明治後期は桂内閣(武断派)と西園寺内閣(文治派)が交互に政権を担う「桂園時代」が始まります。
  ・第一次桂内閣(1901〜1906)
  ・第一次西園寺内閣(1906〜1908)
  ・第二次桂内閣(1908〜1911)
  ・第二次西園寺内閣(1911〜1912)
という構造で、以後10年以上にわたり、この2人が明治政界の中枢を占めることになります。

外務大臣・小村寿太郎の扱い

 記事末尾に記されているように、外務大臣小村寿太郎はポーツマス講和の全権代表でした。条約の締結後、欧米視察のため外遊中で、帰国が年末になる予定。そのため、「帰国後に辞表提出」との但し書きが添えられています。小村は講和の「戦犯」として民衆から激しく非難されたものの、外交的には冷静で現実的な選択をしたと後に高く評価されます。

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