1907年08月01日 韓国は自ら独立を損なってきた ― 独立を守ってきたのは日本である ― 伊藤統監、新聞記者との懇談会で語る

1907年

(1907〈明治40〉年8月1日『東京朝日新聞』、7月30日京城発)
 伊藤統監は、日本人記者との意思疎通を図るため、7月29日の夕方、日本人倶楽部で晩餐会を開きました。会には統監府の高官や軍の将官も出席し、伊藤はおおよそ次のような演説を行いました。
 韓国はこれまで、自ら独立を危うくしてきた。一方、日本は一貫して韓国の独立を守ろうとしてきた。1875年の雲揚艦事件では、日本国内で「責任を韓国に問うべきか、それとも宗主国を自称する清に問うべきか」という議論があった。最終的には、「韓国は清の年号を用いてはいるが正式な属国ではない」と判断され、日本は韓国と直接交渉し、黒田清隆と井上馨を派遣して対等な通商条約(日朝修好条規)を締結した。これによって、日本は韓国の独立を国際的に認めさせた。
 1885年、天津条約の交渉で私は李鴻章と会談したが、李は「朝鮮は清の属国である」と主張した。しかし、日本は天津条約によって清に朝鮮の独立を認めさせ、その後、アメリカや欧米諸国もこれを承認した。ところが朝鮮の人々は、なお清への従属意識(事大思想)を捨てようとせず、その結果、日清戦争の原因を生み出した。さらに下関条約で朝鮮の独立が確認されたにもかかわらず、その後も朝鮮半島が原因となって日露戦争が起きた。
 このように朝鮮では事大思想が独立を損ね、日本はそのたびに独立を守る立場を取ってきた。日本は国名を「朝鮮」から「韓国」と改め、国王を皇帝とし、行政制度も改めて独立国家として整備した。それにもかかわらず、韓国人は、日本が独立を奪おうとしていると誤解しているが、それは全く見当違いである。日本にとっても、韓国が独立国家として存続することは利益である。もし他国の支配下に置かれれば、日本の安全保障上、大きな脅威となる。だから日本は韓国を富強にし、自立できる国家へ育て、日本と協力関係を築くことを目標としている。
 しかし日露戦争中、韓国政府は陰謀や策謀ばかりを行い、事態をさらに複雑にした。そのため1905年の日韓協約によって、日本は韓国の外交権を引き受けた。これは東アジアの平和を守るためである。
 私は韓国皇帝にも、「外交権を日本へ委ねておきながら、なおハーグ密使事件のような行動を起こすとはどういうことか。皇帝には忠臣がおらず、お世辞を言う者ばかりではないか。」と進言した。
 今回の事件を機に「韓国を日本へ併合すべきだ」という意見もあるが、私は併合は必要ないと考えている。併合しても日本の負担が増えるだけで利益は少ない。むしろ韓国に自治能力を身につけさせ、財政・経済・教育を発展させたうえで、将来的にはドイツの諸邦のような連邦的な関係を築くことが、日本にとって最も利益になると考えている。
 演説を終えた伊藤は満足そうな表情を見せた。
 その後、中村弥六が日韓同志会の趣旨を説明し、韓国人の啓蒙を説くと、伊藤は対馬へ流された韓国人儒者の日記を取り出して一節を読み、「このような時代遅れの人物が韓国の指導層にいるようでは、国民の実情も推して知るべきだ。私は、この国を近代化することの難しさを痛感している。」と語った。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/171

写真・図引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/統監府

⚫︎ 演説が行われた時期

この記事は、第三次日韓協約(1907年7月24日)締結直後に行われた記者懇談会を報じています。

この協約により、日本は韓国政府の内政にも強い影響力を持つようになりました。

一方で韓国国内では、

  • 高宗退位
  • 義兵(抗日武装勢力)の蜂起
  • 親日派への襲撃

など反発が急速に強まっていました。

こうした状況の中で、統監の伊藤博文は、日本の対韓政策を新聞記者に説明し、国内世論の理解を得ようとしたと考えられます。

⚫︎ 「韓国の独立を守ったのは日本」という主張

伊藤は演説で、

  • 1876年の日朝修好条規
  • 1885年の天津条約
  • 1895年の下関条約

を挙げ、「日本は一貫して朝鮮の独立を支援してきた」と述べています。

実際、これらの条約では清朝の宗主権を弱める方向に作用しました。しかし、その背景には、日本が朝鮮半島における清やロシアの影響力を排除し、自国の安全保障と勢力圏を確保しようとする戦略もありました。

⚫︎ 「併合は不要」という伊藤の見解

この記事で特に注目されるのは、伊藤が「韓国との合併(併合)は必要ない」と明言している点です。

伊藤は、韓国を直ちに日本へ編入するよりも、

  • 行政改革
  • 財政再建
  • 教育の普及
  • 自治能力の育成

を進め、日本の保護下で安定した国家に育てる方が現実的だと考えていました。

ただし、この方針は政府内や軍部の強硬論と必ずしも一致していたわけではありません。その後、1909年に伊藤が暗殺されると、韓国併合論が一層強まり、1910年の韓国併合へとつながります。

⚫︎ 史料としての価値

この記事は、当時の日本政府が対韓政策をどのように説明していたかを知る重要な一次史料です。

一方で、「韓国人は陰謀を好む」「忠臣がいない」などの表現は、当時の日本側の偏見や植民地主義的な認識を反映しています。現在では、韓国側の史料や欧米外交文書なども併せて検討し、多角的に評価することが求められています。

⚫︎ まとめ

この記事の要点は次のとおりです。

  • 伊藤博文は記者懇談会で、日本は朝鮮・韓国の独立を一貫して支援してきたと主張した。
  • 朝鮮の「事大思想」が独立を妨げたと論じ、日本の保護政策を正当化した。
  • 1905年の日韓協約による外交権掌握についても、東アジアの平和維持のためと説明した。
  • 興味深いことに、この時点では韓国併合には反対し、自治能力を育成する方針を示していた。
  • この記事は、日本の保護国政策を擁護する当時の公式的な論理を知るうえで重要な史料である一方、その内容には当時の政治的立場や植民地主義的な視点が色濃く反映されている。

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