1907年12月27日 わが国の時計の変遷―服部時計店員の話

1907年

(1907・12・27、報知新聞)
 今ではどんな田舎へ行っても、時計の音を聞くことができるようになった。日本の時計が初めて外国からの輸入統計に登場したのは、明治19年(1886年)ごろだという。そこで現在の銀座・服部時計店について、日本における時計の変化を聞いてみた。
 最初のころは、スイス製とアメリカ製の時計が多く輸入されていた。横浜の外国商館であるハアプル、コロン、レッツなどの各商会が、これらの時計を取り扱っていた。しかし最近では、イギリス製とスイス製の輸入時計が多数を占めるようになり、シミツド、タバンの両商会が大きな取引先となっている。
 明治19年ごろには、外国からの輸入額は、
  ・懐中時計:約16万6,000円(約3万3,000個)
  ・掛時計・置時計:約88万円(約4万2,000個)
だった。
 ところが、その後しだいに輸入が増加し、明治31年(1898年)には、
  ・懐中時計:約300万円(53万個余り)
  ・掛時計・置時計:約23万円(19万1,000個余り)
という大きな輸入額を記録した。
 その後はいったん減少したが、明治39年(1906年)には、時計の輸入額は再び326万円余りにまで膨れ上がった。ただし、この輸入増加には特殊な事情がある。翌年に関税が引き上げられることが予想されたため、商人たちが値上げ前に大量に輸入しておこうとしたのである。そのため、関税引き上げの翌年には、輸入量は必ず減少する傾向があった。日露戦争後になると、日本社会が次第にぜいたく品に慣れてきたため、高級な時計の輸入が増えてきた。それ以前は、主として安価な時計が輸入されていた。
 一方、日本国内での時計製造も、近年になって盛んになってきた。明治32年(1899年)ごろまでは、大阪や京都周辺で時計製造会社が次々に設立された。しかし、経営がうまくいかず、次々に解散してしまった。現在では、名古屋に時計製造業者が12~13軒ほどあり、東京では服部時計店の製造工場が本所・柳島にあるだけだという。最近では、日本製時計を海外へ輸出することも試みている。輸出先としては、中国、インド、オーストラリア、ハワイ、朝鮮などを目指している。しかし、まだインドより西の地域には、一個も輸出できていない。しかも輸出できているのは、主に掛時計と置時計の二種類で、懐中時計については、まだ日本国内の需要を満たすだけにとどまっている。今後、日本が大いに輸出を伸ばすべき市場は、もちろん中国市場である。しかし、中国では安い商品を好む傾向が強い。この点をよく理解しているドイツ製品は非常に手ごわい。ドイツ製の時計には、置時計のケースをブリキで作り、1個平均1円20~30銭程度という粗製・安価な製品を大量に売り込んでいるものがある。その勢力は決して侮ることができず、現在では第一級の優勢を誇っている。ドイツのほかにも、アメリカやスイスの時計が日本市場に入ってきている。したがって、日本はこれら外国製品を相手に競争しなければならない立場にある。そこで日本が外国製品に対抗するために第一に考えているのが、安価な時計を大量に製造することである。ただし、日本製品を海外へ輸出する場合、「日本製」であることを示す刻印を押さないと、関税が高くなってしまう。そのため、ドイツ製品と価格面で競争することが非常に難しいという。中国市場については、今年は景気が悪いため、販売成績はあまり良くない。一方、日本国内での時計の年間販売額は、
  ・輸入時計:約235万円
  ・服部時計店:約100万円
  ・名古屋製品:約80万円
で、合計約420万円になる。このうち約80万円余りが海外へ輸出される。したがって、差し引きすると、日本国内で消費される時計の年間需要は、原価ベースで約340万円になる。(以下略)

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/199

写真・図引用:https://www.seikowatches.com/jp-ja/special/heritage/

⚫︎ 明治時代の日本では「時計」は最初から国産品ではなかった

この記事を理解するうえで重要なのは、明治初期の日本では時計がほぼ完全に輸入品だったことです。

開港後、横浜などの外国人居留地に外国商館が進出し、スイス、ドイツ、アメリカなどの時計が日本へ入ってきました。

服部金太郎が1881年(明治14年)に創業した服部時計店も、最初から時計メーカーだったわけではありません。

外国製時計を輸入して販売・修理する時計店としてスタートしています。服部時計店は外国商館から信用を得て発展し、1886年ごろから舶来時計の卸売・販売に力を入れるようになりました。

つまり、この記事の「外国製時計→国産時計」という流れは、まさに服部時計店自身の発展史でもあります。

⚫︎ 「商館時計」の時代

記事に登場する「コロン」「レッツ」「シミツド」などは、明治期の日本で時計を輸入・販売していた外国商館です。

特に有名なのが、

  • コロン商会
  • ファブル・ブラント商会
  • レッツ商会
  • R.シュミット商会

などです。

現在では、これら外国商館が日本で販売した時計は「商館時計」と呼ばれ、明治の時計文化を示す貴重なアンティークとして知られています。

記事に出てくる「レッツ商会」は、ドイツ系の F. Retz & Co. です。横浜を拠点として長く活動した外国商館で、日本の「商館時計」を代表する存在の一つでした。

また「シミツド」は、文脈から見るとR. Schmid(R.シュミット)を指している可能性が高いです。

⚫︎ 服部金太郎は「販売業」から「製造業」へ進んだ

服部金太郎は輸入時計を売るだけではなく、やがて「日本でも時計を作る」という方向へ進みます。

1892年(明治25年)、服部時計店の製造部門として精工舎を設立。

最初に製造したのは懐中時計ではなく、比較的製造しやすかった掛時計でした。翌年には本所・柳島へ工場を移しています。

そして、

  • 1892年 精工舎設立、掛時計製造
  • 1895年 懐中時計「タイムキーパー」
  • 1899年 目覚時計
  • 1905年 上海・香港に販売代理店

という具合に製造・販売網を拡大していきます。

つまり1907年の記事は、日本の時計産業が「輸入販売中心」から「国産製造+輸出」へ転換しつつある時期に書かれたものなのです。

⚫︎ なぜ「中国市場」が重要だったのか

この記事では、「将來大に輸出をなすべきは勿論支那市場」と非常に強調しています。

これは当時の日本企業にとって中国が巨大な近隣市場だったからです。

しかし、問題は価格競争でした。

記事によればドイツ製品は、ブリキ製ケースの置時計を1円20~30銭程度という非常に安い価格で中国市場へ売り込んでいました。

つまり日本の時計メーカーは、ドイツ製品=安い大量生産品に対抗する必要があったわけです。

これは時計だけの話ではありません。

明治後期の日本では、繊維・陶磁器・雑貨・機械など多くの産業で、

 「欧米から輸入する国」→「欧米製品と競争する国」→「アジアへ輸出する国」

という変化が起こっていました。

この記事は、その変化を時計産業から見た非常に面白い資料です。

⚫︎ 「安価・粗製」が日本の対抗策だった

この記事には少し意外な記述があります。

日本が外国製品に対抗するため、「廉價粗製を第一の對抗策」としているのです。

つまり、「高品質な高級時計を作って欧米と戦う」というより、まずは「安く大量に作って中国などの市場へ売る」という戦略でした。

これは後の日本の工業発展を考えるうえでも興味深い点です。

もちろん1907年の段階では、スイスなどの時計技術にはまだ大きな差がありました。

しかし服部金太郎は、設備・工作機械・生産技術の近代化を積極的に進めていました。1906年には欧米視察で購入した140馬力の蒸気機関を導入するなど、工場の近代化を進めています。

⚫︎ 1907年は「日本時計産業の転換点」

この記事が書かれた1907年ごろの精工舎は、まだ現在の「セイコー」のような世界企業ではありません。

しかし、服部時計店はすでにかなり大きな企業になっていました。

服部金太郎自身も1907年、47歳でした。

そして興味深いことに、後の1911年には、精工舎が国産時計市場の約60%を占めるまでに成長します。

したがって1907年の記事は、「日本の時計産業が、外国製品を輸入する段階から、外国製品と競争し、さらに海外へ輸出する段階へ移ろうとしている瞬間」を記録していると言えます。

⚫︎ まとめ

この記事を一言でまとめると、「日本人が外国製時計を買う時代」から「日本人が時計を作り、外国へ売ろうとする時代」への転換を描いた記事です。

流れを整理すると、次のようになります。

時期日本の時計産業
明治初期時計はほぼ外国製品
1880年代横浜の外国商館から時計を輸入
1881服部時計店創業
1892精工舎設立、掛時計の国産化
1895国産懐中時計「タイムキーパー」
1905上海・香港に販売代理店
1907中国・朝鮮・インドなどへの輸出を模索
1907ドイツ製品などとの価格競争が激化
1911精工舎が国産時計市場の約60%を占める
1913国産初の腕時計「ローレル」

服部時計店の歴史は、そのまま日本の近代的な精密機械工業の発展史の一部になっていきます。

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