(1907〈明治40〉年8月3日『中外商業新聞』)
古代中国では、秦の始皇帝が方士(仙人・道士)を東方へ派遣し、不老不死の薬を探させたという話がある。それは昔のことであるが、現在、清国(清朝)の政治を実質的に取り仕切っている西太后は、女性とは思えないほど大胆で勇敢な人物であり、その知恵と政治手腕には国内外の人々が感嘆している。すでに70歳を超える高齢であるにもかかわらず、その活力は若者をしのぐほどであり、「不老不死の仙薬を飲んでいるのではないか」とまで噂されている。ところが最近、中国南部で発行されている『日々新聞』の北京通信によれば、西太后は近ごろ国政を自ら裁決することに疲れを感じ、政務から退く意向を漏らしたという。その退隠(引退)の儀式は、来年(1908年)2月2日の旧暦元旦に行われる予定と伝えられている。また、その際には皇位継承者(皇太子)も選ばれる見込みであり、有力候補としては醇親王(純親王)の幼い子が最も有力視されており、恭親王も候補の一人であると報じられている。
写真・図引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Ci-Xi_Imperial_Dowager_Empress_(9.2).PNG#metadata
⚫︎ 西太后とは
西太后(慈禧太后、1835~1908)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて清朝の実権を握った人物です。
咸豊帝の側室として宮廷に入り、息子の同治帝が即位すると垂簾聴政(幼帝に代わって政治を執る制度)を行い、その後も光緒帝の時代を通じて約半世紀にわたり清朝政治を主導しました。
当時の欧米や日本では、中国を代表する政治家として非常によく知られた存在でした。
⚫︎ 「退隠説」は実現しなかった
この記事では、西太后が1908年に政務から退くと報じています。
しかし、実際には退隠は行われませんでした。
むしろ西太后はその後も政治の実権を保持し続けます。
そして1908年11月、
- 光緒帝が11月14日に死去
- 翌15日に西太后も死去
という劇的な出来事が続きました。
その直前、西太后はわずか2歳の溥儀を皇帝に指名しています。
記事にある「純親王の幼子」とは、この溥儀のことです。
⚫︎ 清朝末期の政治情勢
1907年の清朝は、
- 日露戦争後の東アジア情勢の変化
- 列強による圧力
- 義和団事件後の改革
- 新政(近代化改革)
など、多くの課題を抱えていました。
西太后は高齢になっても改革を主導していましたが、健康状態や後継問題には国内外の大きな関心が集まっていました。
そのため、このような「退隠説」が新聞で盛んに報じられたと考えられます。
⚫︎ 新聞報道の信頼性
この記事は、中国の地方紙『南清日々新聞』の報道を引用しています。
当時は通信網が現在ほど発達しておらず、中国宮廷の情報は噂や未確認情報をもとに報じられることも少なくありませんでした。
実際、本記事で伝えられた退隠は実現しておらず、歴史資料としては「当時流布していた観測記事」の一例として読むのが適切です。
⚫︎ まとめ
この記事の要点は次のとおりです。
- 清朝の実力者・西太后が政務から退く意向を示したと報じられた。
- 引退は1908年旧正月に予定され、同時に皇位継承者も決められるとされた。
- 有力な後継候補として、後に宣統帝となる溥儀(醇親王の子)が名前こそ出ていないものの、その人物像が示されている。
- 実際には退隠は行われず、西太后は1908年11月まで実権を保持した。
- この新聞記事は、清朝末期の宮廷政治に対する当時の関心や情報の伝わり方を知るうえで興味深い史料である。

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