(1907〈明治40〉年8月3日『都新聞』)
昨日の朝、浅草警察署において、台湾出身の女性2人が娼妓(公認売春婦)として営業するための鑑札(営業許可証)の交付を申請しました。台湾出身の女性が娼妓として登録されることは珍しかったため、多くの見物人が警察署前に集まり、大変な人だかりとなりました。
この2人は、新吉原・揚屋町の成八幡楼の主人・松島龍次郎が、それぞれ1人につき200円の前借金を支払って台湾から迎え入れた女性でした。
記事によれば、
・黄氏の長女・巌氏(23歳)、源氏名(店での名前)は「キントイ」
・李氏の三女・張氏鳳(20歳)、源氏名は「アポン」
とされています。2人はこの日から店に出る予定で、遊興料金は2時間3円と報じられています。
⚫︎ 公娼制度のもとでの吉原
この記事の舞台である新吉原遊廓は、江戸時代以来、日本最大の公認遊廓でした。
明治時代にも政府の公娼制度が継続され、娼妓は警察から鑑札(営業許可)を受けて営業していました。
営業開始には、
- 身元確認
- 健康診断
- 警察への登録
などの手続きが必要でした。
⚫︎ 台湾統治と人の移動
1895年の下関条約によって台湾は日本の統治下に入り、日本本土と台湾の間では人や物の往来が徐々に増加しました。
この記事に登場する2人も、そのような植民地と日本本土を結ぶ移動の中で来日した女性たちです。
ただし、この移動が本人の自由意思によるものだったのか、あるいは経済的事情や仲介業者による斡旋・契約に基づくものだったのかは、この記事だけでは判断できません。
一方で、「前借金」によって雇い入れられたと記されていることから、当時の公娼制度特有の債務契約の仕組みの中に置かれていたことがうかがえます。
⚫︎ 「前借金」と公娼制度
記事にある「一人200円の前借」とは、遊廓の経営者が本人や家族に対して契約金を前払いする制度です。
この前借金は、娼妓が働いて返済する仕組みであり、実際には契約期間中の自由を大きく制限する要因となることも少なくありませんでした。
当時の200円は一般労働者の年収に近い、あるいはそれを上回るほどの金額であり、高額な契約だったことが分かります。
⚫︎ 当時の新聞の視点
この記事は、「台湾女性が珍しい」という点を興味本位で報じています。
しかし現代の歴史研究では、この出来事は単なる珍聞ではなく、
- 日本の植民地支配
- 女性労働
- 公娼制度
- 植民地下の人口移動
が交差する事例として位置づけられています。
植民地出身女性の就労や移動については、本人の意思だけでなく、経済状況や制度的制約も考慮して理解する必要があります。
⚫︎ まとめ
この記事の要点は次のとおりです。
- 台湾出身の女性2人が、新吉原で娼妓として営業するため警察の鑑札を取得した。
- 当時としては珍しい事例であったため、多くの見物人が集まった。
- 2人は遊廓側から前借金を受ける契約で来日していた。
- この出来事は、日本による台湾統治開始後の人の移動を示す一例である。

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