1905年12月27日 満洲の要地開放

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.554

(1904年12月27日、国民新聞)
 北京での交渉の結果、「門戸開放主義」を実行する方針として、清国が満洲の十数か所の重要地を外国貿易に開放することとなった。本社の北京特派員はすでにこれを報じ、またロンドンからの電報でも伝えられていたが、今回の交渉の結果、清国政府が開放を約束した地点は以下の十六か所であるという。
 盛京省(奉天省)  鳳凰城(ほうおうじょう)、遼陽(りょうよう)、新民庁(しんみんちょう)、
           鉄嶺(てつれい)、通江子(つうこうし)、昌円(しょうえん)、
           法庫門(ほうこもん)
 吉林省       長春(ちょうしゅん)、吉林(きつりん)、ハルビン、琿春(こんしゅん)、
           三姓(さんせい)
 黒龍省(黒竜江省) 斉々哈爾(チチハル)、海拉爾(ハイラル)、愛琿(アイグン)、
           満洲里(マンジュウリ)

1. 時期と国際情勢

 この記事が掲載されたのは1904年(明治37年)12月、つまり日露戦争の最中です(同年2月開戦)。戦争の主戦場はまさに「満洲(現在の中国東北地方)」であり、ロシアが南下政策の一環としてこの地に強い影響力を持っていました。
 一方、日本はロシアの満洲独占を阻止しようとし、「門戸開放・機会均等・清国の領土保全」というスローガンを掲げ、アメリカのジョン・ヘイが提唱した「門戸開放政策(Open Door Policy)」を支持していました。

2. 「門戸開放主義」の意味

 「門戸開放主義」とは、清国(当時の中国)を列強が独占的に支配するのではなく、すべての国に対して平等に貿易・投資の機会を開放するという原則です。これはアメリカが1899年以降提唱した政策で、ヨーロッパ列強や日本による中国分割競争を防ぎ、自国にも市場参入の機会を確保する狙いがありました。

3. 「満洲要地の開放」とは何か

 この記事でいう「開放」は、清国が特定の都市・地域を外国人商人が自由に貿易・居住できる「通商口」として指定することを指します。つまり、ロシアや日本、欧米諸国が満洲で貿易を行えるように、清国が条約上これを認めたという内容です。
 この「十六か所の開放」は、清国がロシアの独占的支配から距離を取り、列強全体に門戸を開く姿勢を見せたものとされます。背景には、日本やイギリスからの外交的圧力がありました。

4. 地名の意義

 列挙された都市は、いずれも満洲の鉄道・交通の要地です。
 たとえば:
  • 遼陽:日露戦争の激戦地。南満洲の要衝。
  • 長春・ハルビン:東清鉄道(ロシア建設)の沿線で、後の満洲国の中心地。
  • 満洲里・ハイラル:ロシア国境近く、シベリア鉄道と接続する重要拠点。
 つまり、これらの地を開放することで、満洲が「列強の経済的競争の場」へと変わることを意味していました。

5. まとめ

 この新聞記事は、日露戦争のさなかに日本が掲げた「満洲の門戸開放」政策が、清国政府の承認によって具体化しつつあることを伝えています。実際には、この開放は形式的なもので、戦後も日本とロシアの勢力争いは続きましたが、この時期に「門戸開放」が外交上の重要スローガンとして浸透していったことがうかがえます。

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