〔明治38年10月26日、東京朝日新聞〕
去る23日は、かつてない大規模な観艦式が行われた日であったため、三つの電車会社は終夜運転をしていた。その日の午前2時ごろ、外濠線のある電車が満員の乗客を乗せたまま行方不明となった。
有楽町の本社はもちろん、お茶の水の支社でも必死に行方を捜したが、全く見当がつかず、関係者一同は顔をしかめ心配していた。ところが約2時間後、その行方不明の電車が発見された。
事情を聞くと、この電車は赤坂方面から四谷を経て牛込へ回るはずだったが、四谷門外の市街鉄道との交差地点を通る際、運転手の未熟から進路を誤って市街鉄道の線路に入ってしまった。そのまま新宿まで走ってしまい、初めて自分の過ちに気づいた。しかし後ろからは次々と市街電車が走ってきたため、途中でどうすることもできず、結局そのまま新宿の終点まで行ってしまったのだ。
このため、乗客は大変な迷惑をこうむり、大声で不満を訴えたが、どうしようもなく、結局そこから四谷線へ戻り、ようやく本来の自社線に復帰したという。まことに珍しい無責任ぶりである。
1. 観艦式と東京の混雑
• 記事の日付は 1905年(明治38年)10月23日、この年は 日露戦争の勝利を祝う観艦式 が横浜沖で盛大に行われました。
• 観艦式には明治天皇が臨御し、全国から見物客が殺到。東京・横浜の交通は大混乱となり、電車会社は「終夜運転」で対応していました。
2. 「外濠線」と「市街鉄道」
• 「外濠線」=現在の 都電(路面電車)の一部路線 にあたります。東京の外濠沿いに敷かれていました。
• 「市街鉄道(街鉄)」は、別会社の路面電車路線。
• 当時、東京には複数の電車会社があり、線路が交差する地点が多くありました。そのため、誤って他社の線路に入るという珍事も起こりえたのです。
3. 運転士の未熟と制度の問題
• 記事は「運転士の未熟」「無責任」と批判しています。
• 当時はまだ電車運行の管理体制が未発達で、信号やポイントの切り替えも人力で行うことが多く、こうしたトラブルが生じやすかった背景があります。
4. 都市交通の黎明期のエピソード
• この事件は、都市交通がまだ整備途上にあったことを象徴しています。
• 電車が「乗客を乗せたまま行方不明になる」というのは現代では考えられませんが、当時の混雑ぶりと運行体制の不備をユーモラスに伝えている記事です。
• 同時に、電車が「庶民の大量輸送手段」としてすでに不可欠になっていたことも示しています。


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