(1907年12月19日・東京朝日新聞)
韓国皇太子殿下は、昨日午前11時50分に離宮を出発し、皇居へ参内された。殿下は伊藤式部次長の先導で、伊藤統監を伴って「鳳凰の間」に進まれた。天皇陛下は廊下までお出迎えになり、そこで皇太子と握手をされた。その後、殿下を鳳凰の間の御座へ案内し、そこで待っていた皇后陛下と対面して挨拶を交わされた。続いて皇太子は、韓国皇帝からの親書を天皇陛下に提出した。さらに、太皇帝(高宗)、皇太子の父である皇帝(純宗)、そして皇族関係者からの伝言を、国分秘書官の通訳を通して天皇陛下に伝えた。その伝言の内容は、天皇・皇后両陛下への丁重な挨拶に続いて、
「皇太子が日本に留学している間、何かと天皇陛下のご指導をお願いしたい」
というものであった。
これに対して天皇陛下からも、丁寧な答えがあった。その後、天皇陛下は皇太子を、有栖川宮威仁親王・同妃、博恭王・同妃の各殿下に引き合わせられた。皇太子はいったん退出し、その後「千種の間」で休憩された。
写真・図引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ACrown_Prince_of_Korea_Yi_Un_01.jpg?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ この「韓国皇太子」とは誰か
ここでいう韓国皇太子は、李垠(り・ぎん/イ・ウン)です。
李垠は1907年当時、わずか10歳でした。
この年7月、父・高宗が退位させられ、異母兄の純宗が皇帝となりました。そして李垠は皇太子となります。
その直後、日本側は李垠を日本へ連れてきて、日本の皇族に準じる環境の中で教育を受けさせることになります。
この記事は、その李垠が天皇に正式に謁見した場面です。
⚫︎ なぜ10歳の皇太子が日本に来たのか
1907年の韓国では、日本による政治的統制が急速に強まっていました。
1905年 第二次日韓協約(乙巳条約)
によって韓国は外交権を失い、日本の統監府が置かれました。
1907年 高宗がハーグ密使事件を起こす
→ 日本政府が高宗の退位を要求
→ 純宗即位
→ 第三次日韓協約
という流れになります。
つまり李垠が日本へ来たのは、単なる「皇太子の留学」という側面だけではなく、日本による韓国支配が強まっていた時期だったことを忘れてはいけません。
⚫︎ 李垠の来日は「留学」であると同時に政治的意味を持っていた
記事には、「殿下留学中は一々天皇陛下の御指導を懇望」とあります。
現代語にすると、「日本留学中、天皇陛下から何かとご指導いただきたい」という意味です。
新聞記事だけを見ると、日韓両皇室の親善を強調した非常に友好的な場面に見えます。
しかし、当時の政治状況を考えると、これはもっと複雑です。
李垠は日本で教育を受け、後には日本の陸軍士官学校にも進み、日本の軍事・皇族制度の中で成長していくことになります。
したがって、この1907年の参内は、韓国皇室の後継者が、日本の皇室と直接的な関係を持つようになった象徴的な出来事と見ることができます。
⚫︎ 伊藤博文も同行している
記事には、「伊藤統監同伴」とあります。
この「伊藤統監」は、伊藤博文です。
当時、伊藤は韓国統監として韓国の政治を強く指導していました。
したがって、
韓国皇太子・李垠 + 日本の天皇・皇后 + 韓国統監・伊藤博文
という人物が一つの儀礼空間に集まったことになります。
これは、当時の日韓関係を象徴する非常に意味のある場面です。
⚫︎ この時期の日韓関係
1907年を簡単に整理すると、
| 年月 | 出来事 |
| 1905年 | 第二次日韓協約、日本が韓国の外交権を掌握 |
| 1906年 | 統監府設置、伊藤博文が初代統監 |
| 1907年7月 | ハーグ密使事件 |
| 1907年7月 | 高宗退位、純宗即位 |
| 1907年7月 | 第三次日韓協約 |
| 1907年12月 | 李垠が日本で天皇に謁見 ← この記事 |
| 1910年 | 韓国併合 |
つまりこの記事は、韓国併合のわずか3年前に掲載されています。
そのため、単なる皇族行事として読むより、「韓国皇室と日本皇室の関係が、韓国に対する日本の政治的支配が強まる中で再編されていく過程」として読むと、その意味がよく分かります。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年12月18日に韓国皇太子・李垠が日本の天皇・皇后に正式に謁見したことを伝えています。
ポイントは3つです。
- 李垠は当時10歳の韓国皇太子だった。
- 伊藤博文統監が同行していた。
- 「留学」として来日したが、背景には日本による韓国への政治的統制の強化があった。
この記事は表面的には「両皇室の親善行事」ですが、歴史的には日本による韓国支配が制度的・人的にも深まっていく過程を示す史料として読むことができます。

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