(1906年10月25日 東京朝日新聞)
(10月24日 サンフランシスコ発)
本月23日、当地(サンフランシスコ)の教育局から在留日本領事に対して回答があり、日本側の抗議はすべて無効であるとの通知がなされた。これを受け、領事は同日、改めて抗議を提出した。本件について我が国政府は、「米国が日本国民を抑圧しており、国内では世論を鎮めるため対応に追われている」との電報を発している。
当地の米国人の多くは、日本側の反対を軽視する傾向にあり、新聞『クロニクル』も23日の社説で、「日本には米国人を排斥する権利があるのなら、米国にも日本人を排斥する権利がある」と述べ、日本側の憤激を冷笑し、サンフランシスコ教育局が採った学校政策を正当なものとして支持した。
このように日本の強い反発を招いた事例は、米国ではほとんど前例がないとされている。
特派員である私は、もしこの学校問題が満足のいく形で解決されなければ、日本はますます軽んじられ、日本の外交政策にも悪影響を及ぼし、太平洋沿岸に住む日本人に対する迫害は一層激しくなるだろうと考える。
この記事は、1906年にアメリカ・サンフランシスコで発生した「日本人児童の公立学校隔離問題(排日教育問題)」を報じたものです。
◾️ 何が起きたのか
1906年、サンフランシスコ市教育局は、市内の公立学校に通っていた日本人児童を、中国人・韓国人などと同様に「東洋人学校(Oriental School)」へ分離・隔離する決定を下しました。
これは事実上の人種差別政策であり、日本政府は
- 日米修好通商条約に反する
- 日本国民の名誉と権利を侵害する
として強く抗議しました。
◾️ なぜ問題が大きくなったのか
当時の日本は、
- 日清戦争(1894–95)
- 日露戦争(1904–05)
に勝利し、列強の一角に加わった新興国として国際的地位を高めていました。
その日本人を「中国人などと同列に隔離する」措置は、日本政府・世論にとって国家的侮辱と受け取られたのです。
◾️ アメリカ側の事情
アメリカ西海岸では、
- 日本人移民の増加
- 労働市場での競争
- 人種的偏見
を背景に、排日感情(反日・反移民感情)が急速に強まっていました。
記事中にある『クロニクル』紙の社説は、その世論を象徴しています。
◾️ その後の展開
この問題は日米外交問題に発展し、最終的には
- 1907~1908年の日米紳士協約
によって、
- アメリカは学校隔離措置を撤回
- 日本は労働者の渡米を自主的に制限
する形で一応の決着を見ました。
◾️ 記事の意味
この記事は、
- 排日政策が地方行政(教育局)レベルで進められていたこと
- 米国世論が日本の抗議を軽視・嘲笑していたこと
- 問題が解決しなければ、日本人迫害と日米関係の悪化が進むという当時の危機感
を生々しく伝える資料です。

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