1906年02月18日 二銭団洲(にせんだんす)坂東叉三郎

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.49

(2月18日、国民新報)
 「二銭団洲(にせんだんす)」の異名で呼ばれ、歌舞伎界(梨園)でも名物男として知られていた 坂東又三郎(ばんどう またさぶろう) は、胃がんと喘息を患い、今月8日から宮戸座の舞台を休み、下谷池之端仲町の自宅(待合屋「満寿水」)にこもって治療を続けていた。しかし病が悪化し、16日午後2時、53歳で亡くなった。(以下略)

背景解説

 この記事は、明治期に活動した歌舞伎役者・坂東又三郎の訃報 を伝えるものです。内容は短いものの、いくつかの重要な背景が読み取れます。

「二銭団洲」とは何か

 見出しにある 「二銭団洲(にせんだんす)」 は、坂東又三郎の あだ名 です。「團洲(だんす)」は本来、当時人気の舞踊家・名優を指す語で、
 これに「二銭(にせん)」がつくことで、 “安くて気楽に見られる庶民派の團洲”“二銭で観られる踊り手”という、やや戯画化した通称になります。
 つまり、彼は
  • 大スターではないが、
  • 庶民的で親しみのあるキャラクター、
  • 江戸情緒の残る芸人として愛された存在
として知られていたことが推測できます。(当時の新聞で芸人にこうした渾名をつけるのは一般的で、悪意ではなく“芸界の名物男”としての愛称です。)

「梨園(りえん)」「宮戸座」とは

 梨園(りえん):歌舞伎界の別名。中国唐代の故事に由来し、日本では歌舞伎役者の世界を指す。
 宮戸座(みやとざ):東京・浅草にあった大衆劇場。歌舞伎・新派・浪曲など多彩な演目で人気だった。
坂東又三郎は宮戸座に出演していたことから、本格歌舞伎より大衆芝居寄りの劇団で活動した役者 とみられる。

「待合・満寿水」に住むということ

 記事には、
  • 自宅=「下谷池之端仲町」
  • “待合”「満寿水」
とある。
 待合(たいあい)とは、料理屋と芸妓手配を兼ねる場所(現在の料亭の前身)で、芸人・役者が副業として営むことも多かった。坂東又三郎も、
  • 本業:歌舞伎役者
  • 副業:待合の経営
という形で生計を立てていたと考えられる。これは明治の中堅役者にはよくある生活形態だった。

病気と死去

 胃がん、喘息を長く患い、舞台を休んでいたが悪化し53歳で死去。この時期の芸人の生活は不規則で過酷で、医療も未発達であるため、このような病死は珍しくありません。

訃報記事の背景:明治の「芸能と新聞」

 明治の新聞は、政治・事件・社交・芸能人の動静(今で言えばエンタメニュース)を並列で扱っていた。
 歌舞伎役者の訃報は読者の関心が高く、短いが丁寧な人物紹介となっている。

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