1905年09月27日 警視庁廃止問題

社会・世相

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.497

(9月27日、東京朝日新聞〕
警視庁を廃止すべきだという主張は、近ごろますます高まりつつあり、今年の東京府会や帝国議会には、必ず多数の賛成を得て提案される見込みである。
廃止の理由を整理すると、この問題はもともと民間で長年議論されてきた懸案であり、経費削減や行政整理の条件として常に第一に挙げられてきた。しかし官制改革に関わるため、これまで実行には至らなかった。ところが、警視庁の今回の不祥事によって、廃止を断行すべきだという機運が高まっている。
まず経費について見ると、明治38年度における警視庁関連の予算は以下の通りである。
• 東京府の支出(警察費・警視庁修繕費):124万9,287円余
• 国庫の支出(大蔵省・内務省所管):70万4,912円余
• 合計:約195万4,199円余

すなわち、年間およそ196万円という巨額が費やされている。これは大阪や京都の警察費と比べて約3倍に当たる。東京が首都であるという特殊事情を考慮しても、他の省庁と同等の規模で特別に大組織を設ける必要はなく、一般の警察業務は東京府庁に、そして高等警察(政治犯や思想取締り)を警保局の下に置けば、何の支障もない。そうすれば、少なくとも50〜60万円は節約できるだろう。
しかも問題は経費削減にとどまらない。警視庁そのものを根本的に改める必要がある。そもそも警視庁が設立されたのは明治5年、川路利良がフランスの特別な警察制度をそのまま導入して、国内の国事犯(政治犯)に備えるためであった。当初から国民保護が目的ではなく、藩閥政府を守るために設置されたものだった。そのため、歴代の総監も専制的な手段を用いる人物ばかりであり、民間で権利や自由を唱える者はすぐに「国賊」と疑われ、国民は警察官を毒蛇のように忌み嫌うようになった。その結果、両者の対立感情は深まり、国民保護の精神は失われてしまった。
今回の小さな衝突(※日比谷焼打事件のこと)が前代未聞の大騒動に発展したのも、原因はこのように深く遠いところにある。今後、官と民の感情を融和し、国民が警察の保護のもとで安らかに暮らせるようにするには、専制時代に設けられた警視庁を廃止し、その根本を断たなければならない。
要するに、警視庁廃止問題は、経費削減の観点からも、官民融和の手段としても、断固として実行する必要があり、その時機はまさに今日こそ最も適切である。

この記事は 日露戦争後の社会不安と日比谷焼打事件(1905年9月) を背景にしています。

• 日比谷焼打事件(1905年9月5日〜7日)
ポーツマス条約で賠償金を得られなかったことに国民が激怒し、東京・日比谷公園での講和反対集会が暴動へと発展しました。市内は大混乱に陥り、政府や警察に対する不満が爆発しました。

• 警視庁への批判
暴動を防げなかった警視庁は「無能」「時代錯誤の抑圧的組織」として非難されました。さらに創設以来、警視庁は自由民権運動や言論人を取り締まる“政府の道具”とみなされ、国民から強く嫌われていました。

• 経費問題
記事が指摘しているように、警視庁の予算は大阪や京都の警察費の数倍にのぼり、「無駄で抑圧的な組織」として廃止論が盛り上がったのです。

結局、警視庁は廃止されませんでしたが、このときの批判はその後の 警察制度改革(大正〜昭和期) にも影響しました。

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