1907年07月17日 山本大将一行の訪米は日米戦争熱の好鎮静剤

1907年

(1907〈明治40〉年7月17日『国民新聞』)
(7月16日、ニューヨーク発電)
 山本権兵衛一行は15日午前8時にニューヨークを出発してボストンへ向かい、その後、アメリカ独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンの子孫であるスクリュー氏と会見したのち、同日夕方にカナダのモントリオールへ向かった。日米戦争の噂や不安が最高潮に達していた時期に山本大将が渡米したことで、両国の感情は大きく和らぎ、戦争熱は沈静化した。特に大将が新聞・雑誌の影響力をよく理解し、記者たちを丁重に扱いながら巧みに対応したことは、多くの人々が感心するところであった。
 記者たちが写真撮影を求めた際、大将は、「私は米国の記者諸君の誠実さを信じている。しかし念のため確認したい。諸君もまた日米両国の平和維持に努めることを約束するなら、撮影に応じよう」と答えたため、記者たちは感銘を受けた。この対応により、普段は煽動的な論調で知られる新聞までもが沈黙し、山本大将の政治的手腕に一層の評価が加わった。
 11日には本協会において、ロブリー・D・エヴァンスと山本大将が共に演説し、「日米戦争には何の根拠もない」と述べた。またレナード・ウッドは、こうした戦争騒ぎの責任を無責任な新聞報道にあるとして厳しく批判した。
 12日には日本倶楽部の歓迎会で、山本大将および青木周蔵が在米日本人に対し、「日米親善の維持に努めるべきである」と丁寧に呼びかけた。
 13日にはセオドア・ルーズベルトとオイスター・ベイで会見し、この会談は両国政府に大きな満足感を与えた。同日の夜、一行は観劇に招待されたが、山本大将だけは出席せず、代わりに花籠を贈って厚意に感謝した。劇場は日米両国の国旗で飾られ、特別に日本舞踊の演目まで用意されていた。総じて言えば、山本大将の訪米は大成功であった。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/166

写真・図引用:https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/213?utm_source=chatgpt.com

◾️ 「日米戦争の噂」が広がっていた時代

1907年は日露戦争終結からまだ2年しか経っていません。

当時のアメリカでは、

  • 日本海軍の急速な拡張
  • 日本人移民問題
  • カリフォルニア州での日本人差別
  • 太平洋の勢力争い

などを背景に、「次は日米戦争ではないか」という論調が新聞で盛んに報じられていました。

特に1906~1907年には、サンフランシスコの学童隔離問題などで日米関係が悪化していました。

◾️ 山本権兵衛の「海軍外交」

山本権兵衛は単なる軍人ではありません。

後に首相も務める政治家であり、

  • 海軍近代化の推進者
  • 対米協調論者
  • 現実主義者

として知られます。

この記事でも、新聞記者を巧みに操縦したと表現されていますが、実際には現代でいう「パブリック・ディプロマシー(世論外交)」を行っていたと見ることができます。

軍艦ではなく世論を相手にした外交でした。

◾️ ルーズベルトとの会談

1905年、セオドア・ルーズベルトはポーツマス条約の仲介者としてノーベル平和賞を受賞しました。

当時の日米関係は悪化していましたが、

  • 日本もアメリカとの衝突を望まない
  • アメリカも日本との戦争を望まない

という点では一致していました。

山本とルーズベルトの会談は、「少なくとも当面は戦争を回避する」という政治的メッセージを世界へ発信した意味があります。

◾️ しかし根本問題は残った

この記事は楽観的な論調ですが、実際には日米対立の原因は解決していませんでした。

その後も、

  • 移民問題
  • 中国市場をめぐる競争
  • フィリピン問題
  • 海軍軍拡競争

が続きます。

1908年にはルート・タカヒラ協定が結ばれますが、最終的には太平洋戦争へ向かう長期的な対立の流れを止めることはできませんでした。

◾️ まとめ

この記事は単なる訪米記事ではありません。

重要なのは、

  • 1907年当時、日米戦争の噂が国際的に広がっていたこと。
  • 山本権兵衛が軍人でありながら世論外交を展開したこと。
  • ルーズベルト政権も日米衝突回避を望んでいたこと。
  • それでも日米対立の根本原因は残り続けたこと。

です。

後世から見ると、この訪米は「太平洋戦争の34年前に行われた日米友好外交の象徴的場面」だったと言えるでしょう。

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