1907年07月13日 韓廷は囚獄同様と、更にハーグに哀訴か

1907年

(1907年7月13日、東京朝日新聞)(12日ソウル発)
 7月6日の閣議において、韓国皇帝はハーグ密使事件について、話題をそらしながらも、内心では自らの責任の重さを認識しているようであり、事後処理については閣僚たちに強く協力を求めていた。しかしその一方で、皇帝はそれとは矛盾する行動を取っていたらしい。
 信頼できる韓国高官の話によれば、閣議の翌日である7月7日、長文の暗号電報が京城(ソウル)からハーグにいる韓国派遣員へ送られたという。表向きの発信者は外国人とされているが、実際には宮中から発せられたものであることは疑いないという。
 電報の内容は明らかではないが、「宮中は日本人による厳重な警備を受けており、まるで囚人のような状態である。皇帝は威厳も実権も失っている」という状況を列国代表に訴えるよう指示したものだとの説がある。閣僚たちはこの事実を知り、7月10日から11日にかけて対応を協議している。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/166

写真・図引用:https://contents.history.go.kr/mobile/eh/view.do?levelId=eh_n0670_0010&utm_source=chatgpt.com

⚫︎ ハーグ密使事件の続報

この記事は前回の

  • 「韓国皇帝の密使」
  • 「海牙密使事件に韓廷大狼狽」

に続く報道です。

1907年、韓国皇帝である高宗は、日本の保護国化を定めた第二次日韓協約の無効を国際社会へ訴えるため、密かに使節を第二回ハーグ平和会議へ派遣しました。

しかし列強諸国は韓国代表の参加を認めず、計画は失敗します。

日本側は、この行動を「保護国の外交権を無視した独断行動」と見なし、強く問題視しました。

⚫︎ 朝鮮宮廷内部の混乱

この記事で興味深いのは、「閣僚たちは事態収拾を図っているが、皇帝は裏でさらに外国へ働きかけている」という構図です。当時の韓国政府には大きく分けて

  • 皇帝親政派
  • 親日改革派
  • 保守派
  • 排日派

が混在していました。

特に総理大臣の李完用らは、日本との正面衝突は不可能と考え、事態沈静化を優先していました。

一方、高宗はなおも列強の介入による局面打開を期待していたと考えられています。

この記事は、日本側が「韓国皇帝は反省していない」という印象を国民に与える役割を果たしています。

⚫︎ 「囚獄同様」という訴え

記事中の日本人の警衛厳重にして殆ど囚人に均しくという部分は重要です。

1905年以降、伊藤博文率いる統監府は宮廷への影響力を急速に強めていました。

実際、

  • 宮中への出入り管理
  • 外国人との接触監視
  • 外交活動の制限

などが行われていました。

しかし皇帝が完全な監禁状態にあったわけではありません。

この記事は、日本側新聞が「皇帝が列強の同情を引くために誇張している」とみなして報じた内容です。

4. まもなく起こる大事件

この記事が出た時点で、日本政府はすでに重大な決断へ向かっていました。

わずか数日後、高宗は退位を迫られます。

1907年7月19日、皇太子の純宗が即位し、さらに第三次日韓協約によって韓国の内政権まで日本の管理下に置かれることになります。

この記事は、その直前の宮廷内部の混乱を伝える非常に貴重な史料です。

⚫︎ まとめ

この記事から読み取れるポイントは次の3点です。

  1. ハーグ密使事件後も高宗は列強への救済要請を諦めていなかった。
  2. 韓国内閣は事態収拾を望んだが、皇帝と閣僚の方針は一致していなかった。
  3. 日本側は皇帝の行動を「秘密外交」とみなし、より強い統制を正当化する材料としていた。

結果として、この一連の動きは高宗退位と第三次日韓協約へとつながり、大韓帝国の主権はさらに縮小していくことになります。

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