(1906年1月1日付 東京日日新聞)
世界の注目、東洋に集中す
日露戦争の開戦以後、世界中の耳目は東洋の一隅に集中した。近年、外交の中心であった東アジアは、いまや列強外交の焦点(=火薬庫)となり、欧米諸国ではこれに勝る重大事件はほとんど見られなかった。しかも、各国で起こった大小さまざまな事件の多くは、直接的または間接的にこの日露戦争と関係を有していた。これは当然のことである。
欧州の外交上の大事件:モロッコ問題と北欧分離
明治三十八年(1905年)に起こった外交上の大問題として、まず挙げるべきはモロッコ問題におけるフランスとドイツの対立であろう。この問題の発生した背景には、ロシアが極東での戦争(日露戦争)に集中したために西欧方面への影響力を弱め、その結果、露仏同盟(ロシア=フランス同盟)の結束が緩んだことがある。これを好機と見たドイツが行動に出て、モロッコにおけるフランスの支配を牽制しようとしたのである。
また、スウェーデンとノルウェーの分離独立も、この年の注目すべき事件である。この分離は、両国の間に百年以上も続いた確執が原因で、最終的に連合を解消するに至ったものだが、これもまたロシアの影響が薄れたことと無関係ではない。長年スカンジナビア半島に強い干渉力を持っていたロシアが、極東での敗戦により勢力を失った機会をとらえて、ノルウェーが分離独立を成し遂げたとも言える。
バルカン問題の沈静化
ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島問題は、列強の宿痾ともいうべき難題であった。しかし、近年は東アジア問題(日露戦争)に列強の関心が移ったため、バルカン情勢は一時的に沈静化した。トルコ(オスマン帝国)に対する列国の共同干渉など、局地的な動きは見られるものの、ヨーロッパ全体を揺るがすほどの大事件は起こらなかった。
以下、明治三十八年中に起こった世界の主要な出来事を列挙する。
ロシア国内の動乱
1904年末からロシア各地で不穏な情勢が見られ、翌1905年1月に至ってついに爆発した。1月初め、モスクワ地方議会議長ツルゲーネフ公は内務大臣に宛てて国内の危機を警告し、皇帝に拝謁して「何が起こるかわからぬ」と進言した。そして1月19日、ペテルブルクで大規模な労働者ストライキ(大同盟罷工)が発生し、瞬く間に全国各地へ波及した。とりわけ同日、ネヴァ川で行われた祭礼に皇帝が臨席していた際、礼砲の中に榴散弾が混じり、皇帝の座から十数歩ほどの場所で炸裂する事件が起きた。事態の深刻さを示す出来事であった。
この動揺は1月から翌月にかけて続き、ペテルブルク総督の交代と軍の強硬鎮圧によって一応の平静を取り戻したが、それは一時的なものであった。この間、全国で数千人の死傷者が出た。特にワルシャワ(ポーランド)では惨烈を極めた。動乱は戦争終結後にさらに拡大し、今なおロシア全土を巻き込む反乱の渦中にある(以下、後篇で続く)。
フランスの内閣交代と宗教問題
1月23日、ルーヴィエ新内閣が成立した。これに先立ち、1月16日にコンブ内閣が議会で信任投票を受けたところ、賛成279票に対し反対289票という僅差で政府が勝利したが、その差がわずか10票であり、このような不安定な情勢のもとでは宗教問題を解決することは困難と判断し、辞職したものである。
そもそも共和党と聖職者(カトリック)勢力は絶対に両立しえず、共和制を安定させるには宗教的団体の影響力を削ぐほかない。コンブ内閣はこの方針に基づき、ローマ教皇庁との外交関係を断絶し、駐ローマ大使を召還した。しかし、「宗教結社法」(政教分離法)の施行により、穏健派が政府に反対する立場に回り、議会での信任投票も僅差で辛うじて通過するという不安定な状態となったため、最終的に辞職を余儀なくされたのである。
全体概要
この記事は、日露戦争がもたらした世界情勢の変化を俯瞰的に論じた年頭総括記事です。日本の新聞が「世界外交の構造変化」をこれほど詳細に分析したのは、当時としては極めて先進的です。
背景:1905年=「世界の転換点」
1905年は、世界史的に見ても非常に重要な年でした。記事中の出来事はいずれも、日露戦争の影響で国際バランスが揺らいだ結果です。
<地域 出来事 日露戦争との関係>
・東アジア 日露戦争終結(ポーツマス条約) 欧州列強の注目が極東に集中
・ヨーロッパ西部 モロッコ危機(仏独対立) ロシアの力が弱まり、独が強気に出た
・北欧 スウェーデン=ノルウェー分離 ロシアの牽制が弱まり、分離が可能に
・東欧・ロシア 第一次ロシア革命(血の日曜日事件) 戦争敗北による国内崩壊
・フランス 政教分離法と政変 ロシアとの同盟が揺らぎ、内政不安も表面化
日本人の「国際観」の変化
この記事は、単なる海外ニュースの紹介ではなく、「日露戦争が世界史を動かした」という自負のこもった論調です。つまり、当時の日本の新聞が「自国の戦争がヨーロッパ外交の構造を変えた」と認識しており、日本が「世界史の一員」になったという自意識が現れています。
特筆すべき論点
• ロシア革命を「戦争の帰結」として早期に見抜いている。
• ヨーロッパの各問題を「露国衰退を背景とするもの」として一貫的に描いている。
• 日本が「欧州列強を観察する側」に回ったことを誇示している。
歴史的意義
この「海外紀要」は、後に続く日本の外交評論(例:朝日新聞の「欧亜評論」など)に先駆ける国際報道の原型です。つまり、明治日本が“世界を見る目”を獲得した象徴的な記事といえます。


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