(1907年6月6日 時事新報)
農科大学の教授で、日本びいきとして知られていたオスカル・レーヴ博士が、日本を去ることになった。博士は他のドイツ人に先んじて、さまざまな慈善・公共事業に寄付を行ってきただけでなく、ある外国人がドイツの新聞で日本を批判した際には、自らフランクフルター・ツァイトゥングに寄稿して日本を擁護した。さらに長男には「マコト」という日本名を付けるほどで、農科大学でも広く尊敬されていた。
博士は1893年に来日し、1898年には一時ワシントンに招かれて勤務したが、1900年に再来日し、それ以来日本の農学界に大きく貢献してきた。
しかし今回、プエルトリコの農事試験所から招かれ、日本を離れることとなった。転任の理由は、日本の気候変化が激しく、健康に良くないためだという。
写真・図引用:https://adeac.jp/sapporo-lib/text-list/d100020/ht530050
⚫︎ 外国人教師(お雇い外国人)の役割
レーヴ博士は、いわゆる「お雇い外国人」の一人です。
明治日本は近代化のため、
- 欧米の専門家を招聘
- 教育・技術を導入
しました。
⚫︎ 農学分野でのドイツの影響
当時の日本の学問体系は:
- 医学 → ドイツ
- 法学 → ドイツ
- 農学 → ドイツ
→ドイツの影響が非常に強い
レーヴもその流れの中の人物です。
⚫︎ 「親日外国人」という存在
記事が強調するのは:
- 日本擁護の論陣
- 日本名を子に命名
→強い親日姿勢
これは当時の日本にとって、国際的評価を高める象徴でした。
⚫︎ 国際世論とメディア
レーヴが寄稿したフランクフルター・ツァイトゥングは有力紙であり、
→海外での日本評価に影響
→日露戦争後の日本は国際的注目の的
⚫︎ なぜ離日したのか
理由として挙げられている:
- 日本の気候(高温多湿)
- 健康問題
→実際、多くの外国人が同様の理由で離日
⚫︎ 次の赴任地:プエルトリコ
プエルトリコは当時:
- アメリカ領(1898年以降)
→農業開発の重要拠点
つまり、世界的な農学者として評価されていた
⚫︎ まとめ
- オスカル・レーヴは親日的な農学者
- 日本の農学発展に大きく貢献
- 海外でも日本を擁護する活動
- 健康問題により離日しプエルトリコへ転任
- 明治日本の「お雇い外国人」政策を象徴
これは「日本近代化を支えた外国人知識人の一例」といえます。

コメント