(1907年3月11日 報知新聞)
日露戦争のころ、ロシアのスパイとして横浜・神戸・長崎などを徘徊し、ロシアのために日本の軍事機密を探っていた男コリンス・バーレーは、日本で逮捕され重禁錮11年の刑を受けていた。しかし恩赦によって昨年4月に出獄した。
そのコリンスは同年11月18日、日本郵船の相模丸で日本人女性を伴い天津に到着した。天津の租界にある芙蓉館という宿に泊まり、宿帳には横浜市太田町 高橋波阿禮(42)、その妻 小澤ちか(30)と記していた。「おちか」はかつて英国人の妻だったが離縁し、コリンスと夫婦になったという。この夫婦が宿泊してからというもの、怪しい中国人青年二人が頻繁に出入りしていた。一人は関某、もう一人は唐兆謙と名乗っていた。
先月27日、コリンスは中国人一人とともに老龍頭駅で北京行きの一等切符を購入し、列車に乗り込んだ。その直後、突然清国官吏によって逮捕された。それ以前、相模丸で天津に上陸した中国人青年が、天津の総督にあたる人物(袁総督)に何度も面会を求めて拒絶され、その後姿を消すという出来事があった。中国警察はその後、先の二人の青年やコリンスの行動を注意深く監視していた。彼らが革命思想を唱える人物と連絡を取り合い、頻繁に往来していることが分かり、内偵を強めた。その結果、有力な証拠を得たらしく、コリンスが外国租界を出る瞬間を待っていたのである。
事情を知らないコリンスは、この日計画していた仕事のため北京へ向かおうとしていたが、すでに情報を得ていた清国警察は駅を包囲し、荷物検査と身体検査を行った。すると爆薬3個を所持していることが発覚した。コリンスと同行の中国人はその場で逮捕され、海関道署に送られた。取り調べの後、身柄は英国領事館に引き渡された。さらに証拠収集のため、彼らが泊まっていた芙蓉館を捜索したところ、重要な書類が見つかったという。
なお、この夫婦は芙蓉館の二階に住み、特に仕事もなく貯金もなく、最近はかなり生活に困っていたらしい。京津(北京―天津)間で何か仕事を探していたようだが、常にある物品を持ち歩いていたことから、鴻濱で起きた火災も彼らの仕業ではないかという噂まで立っていた。妻のおちかは背が高くやや痩せ型で、美人と言える容貌だった。しかし夫のことについては口を閉ざし、「商売の用事で来ただけ」としか語らなかった。
最近、日本の警察の取り調べを受けた後、芙蓉館に戻り、フランス租界の英国商社「礼発軍火機器行」まで送られたが、その時にはほとんど病人のような状態だったという。
◾️ 日露戦争後も続いたスパイ戦
この事件の主人公はロシアのスパイとされる人物である。日露戦争(1904–1905)の時、日本国内ではロシアの諜報活動が活発だった。
- 港湾都市(横浜・神戸・長崎)
- 軍港(佐世保・呉)
- 鉄道や軍需工場
などが主な対象だった。
コリンスはその一人として逮捕され、重刑を受けたが、戦後の恩赦で釈放されたとされる。
この時代は、戦争が終わっても諜報戦は続いていた。
◾️ 革命の拠点だった天津租界
事件の舞台は中国北部の都市、天津には
- 英国租界
- フランス租界
- 日本租界
など外国の支配地域があり、警察権や司法権が外国側にあった。
そのためここは
- 革命家
- 武器商人
- スパイ
- 密輸業者
が集まる国際的な陰謀都市になっていた。
◾️ 清末の革命運動
1900年代の中国では
- 清朝打倒
- 共和革命
を掲げる運動が広がっていた。
代表的人物が孫文であり、彼の組織中国同盟会が各地で蜂起を計画していた。
外国人が革命運動に関与することも多く、
- 武器の密輸
- 爆弾製造
- 情報提供
などを担う人物が存在した。
記事ではコリンスが革命派と連絡していた可能性が示唆されている。
◾️ 清朝の実力者
記事中の「袁総督」はおそらく袁世凱である。
彼は当時
- 北洋軍の指導者
- 直隷総督
として北中国の軍政を握っていた。
後に
- 清朝滅亡
- 中華民国成立
の過程で重要人物となる。
◾️ まとめ
この新聞記事は、元ロシアスパイが中国革命に関与した疑いで再び逮捕された事件を報じている。
ポイント
- 日露戦争で逮捕されたロシア諜報員が恩赦で出獄
- 天津租界で中国革命派と接触
- 北京へ向かう途中、爆薬所持で清国警察に逮捕
- 革命活動や爆破計画への関与が疑われた
この事件は、当時の東アジアが
- 帝国主義列強
- スパイ戦
- 中国革命運動
という三つの要素が交錯する、国際的な政治の舞台だったことをよく示している。


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