1906年05月26日 沖・横川と同行した四志士の銃殺が判明 遺族に恩賜金

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.97

(1906年5月26日 時事新報)
 横川省三、沖禎介らの志士が、明治37年(1904年)4月中旬斉々哈爾(チチハル)南方において敵に捕えられ、銃殺されたということは、当時すでに世間に広く伝えられていた。
 しかし、横川・沖の両名と行動を共にしていた志士として、脇光三、松崎保一、田村一三、中山直熊の四名がおり、彼らについてはその後、生死不明となっていた。
 ところがこのたび、横川・沖の両名が捕えられたヤーポローから約六里(およそ24キロ)離れた地点において、同年4月15日、敵兵の急襲を受け、四名とも戦死していたことが判明した、との通知が、満洲軍総司令部の残務担当者から、四、五日前に各遺族へ届けられた。
 あわせて、生前の功績により、一人につき金1,100円の恩賜金が下賜されたという。
 なお、脇光三氏は浅岡一氏の実子であるため、赤坂新坂町の浅岡氏宅から出棺し、来る29日に青山墓地において葬儀が執り行われる予定であると伝えられている。

◾️ 「志士」とは何を指すか

 ここでいう「志士」とは、日露戦争中に正規軍とは別に活動した、
  ・偵察
  ・諜報
  ・破壊工作
  ・先遣行動
などを担った特務・義勇的性格の人員を指します。必ずしも正規の陸軍兵士だけではなく、民間出身者や志願者も含まれていました。

◾️ 事件の舞台:満洲・斉々哈爾方面

 斉々哈爾(チチハル)は、北満洲の要地であり、
  ・ロシア軍の補給線
  ・鉄道・交通の要衝
として重要な地域でした。

 この地域では、正規軍の戦闘だけでなく、
  ・小部隊による潜入
  ・偵察行動
  ・ゲリラ的衝突
が頻発しており、捕虜になった場合の扱いは非常に過酷でした。

◾️ 捕虜銃殺という現実

 記事が伝えるように、
  ・捕虜となった後に銃殺
  ・あるいは包囲戦の末の戦死
という結末は、日露戦争の非正規戦の厳しさを象徴しています。

 当時の国際法(ハーグ陸戦条約)は存在していましたが、
  ・正規兵かどうかの判断
  ・諜報活動従事者の扱い
については曖昧で、実戦では厳格に守られないことも多かったのが実情でした。

◾️ 生死不明から「戦死確定」へ

 戦時中は、
  ・通信の遅延
  ・戦線の混乱
  ・現地記録の欠如
により、戦死や捕虜の確認が何年も遅れることが珍しくありませんでした。

 この記事は、戦後処理の一環として事実関係が確定した段階を伝えています。

◾️ 恩賜金の意味

 恩賜金(おんしきん)とは、
  ・天皇の名において下賜される金銭
  ・国家による功績の公式認定
を意味します。

 1,100円という金額は、当時としては極めて高額で、
  ・一般官吏の年収を大きく上回る
  ・遺族の生活保障
という実質的意味を持つと同時に、彼らは「国家のために殉じた存在」であるという象徴的な評価でもありました。

◾️ 新聞報道の役割

 この記事は単なる訃報ではなく、
  ・無名の志士たちの犠牲を顕彰する
  ・戦争の影の部分を可視化する
  ・国家が責任をもって遇する姿勢を示す
という意図を含んでいます。

 特に、
  ・葬儀の場所
  ・出棺元の住所
まで詳しく記すのは、社会的顕彰の意味合いが強い表現です。

◾️ 歴史的意義

 この記事は、
  ・日露戦争が正規軍同士の戦いだけでなかったこと
  ・名の残らない多くの志士が存在したこと
  ・戦後にようやく評価・補償がなされた現実
を示す、貴重な史料です。

◾️ まとめ

 この新聞記事は、「戦場の裏側で命を落とした無名の志士たちが、ようやく国家によって公式に顕彰された」ことを伝えています。
 それは同時に、日露戦争の勝利の背後に、多くの犠牲と沈黙の年月があったことを静かに語る記事でもあります。

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