1906年12月12日 韓国皇帝より我が皇室に親書捧呈

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.180

(1906年12月12日 東京朝日新聞)
 韓国皇帝陛下から日本の天皇陛下に宛てた親書が贈られたため、特使として内務大臣の李址鎔(イ・ジヨン)氏が、その夫人および随員として漢城府尹(漢城府の長官)朴義秉氏らを伴い、伊藤統監の同伴のもと、昨日午前11時50分に宮中へ参内した。特使一行は鳳凰の間において天皇陛下に謁見を許され、李址鎔氏は恭しく、次の趣旨の親書を捧呈したという。
 大日本皇帝陛下は、その神聖にして英明な武徳をもって遠く東洋の平和を思われ、重臣であり大勲位侯爵である伊藤博文を統監として、わが国の政務の指導と啓発にあたらせられた。そして、今春の着任以来、伊藤統監が進めてきた施政の改善によって、これまでの悪政は一掃され、国政の面目は一新された。これは朕の深く喜ぶところである。
 今後もさらに、わが国を扶助し導いて、その成果を一層あげられることを望むものである。

この記事は、日韓関係が「保護国体制」として固定化していく過程を象徴的に示す、きわめて重要な外交記事です。

◾️ 乙巳条約(第二次日韓協約)後の状況

1905年11月、日本は韓国に対し第二次日韓協約(乙巳条約)を締結させ、

  • 韓国は外交権を失い
  • 日本は統監府を設置し
  • 初代統監に伊藤博文が就任

しました。

1906年は、その体制が本格的に動き始めた最初の年にあたります。

◾️ 親書の政治的意味

この記事に掲載された親書は、

  • 表向きには「感謝」と「協力」を表明
  • 実際には、日本の保護国支配を皇帝自らが追認する形

になっています。

特に、

  • 「政務の指導啓発」
  • 「弊政を一掃し、面目を一新」

といった表現は、日本の統治介入を正当化する公式文言として使われています。

◾️ 特使・李址鎔の位置づけ

李址鎔は、乙巳条約締結に関与した、いわゆる「乙巳五賊」の一人で、日本の対韓政策に協力的な高官でした。

その李址鎔が特使として派遣されていること自体が、

  • 皇帝の意思が日本の意向に強く拘束されていた
  • 韓国内での自主的外交余地がほぼ失われていた

ことを示しています。

◾️ 伊藤博文の同席の意味

特使が伊藤統監を帯同して参内している点は象徴的です。

これは、

  • 韓国皇帝の外交行為が
  • すでに日本統監の管理下にあった

ことを公然と示すものであり、主権国家としての韓国の実質的消滅を内外に印象づける演出でもありました。

◾️ 国内外へのメッセージ

この報道は、

  • 日本国内には「対韓支配は秩序的・平和的である」
  • 国際社会には「韓国皇帝も日本の指導を歓迎している」

という印象を与える目的を持っていました。

実際には、同時期に韓国内では義兵闘争や反日運動が拡大しており、親書の内容と現実との乖離は大きかったと言えます。

◾️ 総括

この記事は、

  • 韓国が形式的には皇帝を戴きながら
  • 実質的には日本の保護国として組み込まれていく過程

を、外交儀礼という穏やかな表現で覆い隠した史料です。
伊藤博文統監体制の正統性を内外に示すための象徴的演出として、当時の政治的文脈を理解する上で欠かせない記事と言えるでしょう。

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