(1906年2月5日・東京朝日新聞)
清国(中国)がロシアに対して提示した提案(要求条件)の内容は、次の通りである。
一、日清協約(=日露戦争後に日本と清国の間で結ばれた協定)において、ロシアのみが特例として駐屯を認められていた鉄道守備兵(鉄道保護兵)を撤退させること。
一、満洲に駐留するロシア軍の撤兵期限を早めること。
一、ロシア政府と、満洲地方の吉林将軍・黒龍江将軍との間で締結された鉱山・鉄道などに関する条約を廃棄すること。ただし、清国外務部(外交部)の正式な承認を経ていないものに限る。(※この種の非公式な条約は非常に多いとされる。)
一、ロシア軍が敷設した軍用鉄道および軍用電線を撤去し、また軍隊が占領していた公私の財産をすべて清国に返還すること。
一、黒龍江(アムール川)を開放すること。
一、戦争の当然の結果とは言えない損害――たとえば「ハルビン暴動」などによる損害――については、ロシアに損害賠償を請求すること。
一、吉林・長春・奉天・新民屯(しんみんとん)に関する清露共同経営の鉄道計画をすべて中止すること。
一、その他の事項として、蒙古(モンゴル)問題においては、庫倫(クーロン=ウランバートル)と恰克圓(チャグン=現在のハルガ)を結ぶ電線を清国の管理に取り戻すこと。
一、恰克圓条約を改正し、ロシアによって侵入・占拠された土地を清国に返還させ、清露の国境線を明確に定めること。
日露戦争後の「満洲問題」
この記事は、日露戦争(1904–1905)終結直後の情勢を伝えています。戦争は日本の勝利に終わり、1905年9月にポーツマス条約が締結されました。
この講和条約によって、ロシアは以下の権益を日本と清国に譲渡しました:
• 遼東半島南部の租借権(旅順・大連) → 日本へ
• 長春以南の南満洲鉄道の経営権 → 日本へ
• 満洲からのロシア軍の段階的撤退 → 清国に約束
しかしロシア軍は、北満洲(特にハルビン以北)からの撤兵を遅らせ、さらに満洲地方で鉱山・鉄道利権を温存しようとしたため、清国政府はこれに強く反発し、この記事のような撤兵・返還要求を行ったのです。
清国の「対露提議」とは
「提議」とは、外交上の正式な提案(要求)のこと。1906年初頭、清国政府はロシアに対し、満洲に関する不平等な取決めや軍事占領を撤廃するよう要求しました。
つまりこの記事は、清国が「ロシアに対し、満洲から完全に手を引け」と公式に求めたことを報じています。
要求内容の狙い
清国の提議内容は、要約すると以下のようになります:
| 区分 | 内容 | 狙い |
| 鉄道守備兵撤退 | 満洲鉄道を口実に駐留するロシア軍の撤退 | 軍事支配の排除 |
| 撤兵期前倒し | 満洲駐留軍の早期撤退 | 主権回復 |
| 鉱山・鉄道条約の廃棄 | 地方官とロシアが結んだ非合法条約を無効化 | 経済主権の回復 |
| 軍用施設撤去 | 軍用鉄道・通信線の撤去 | 軍事的影響力の排除 |
| 黒龍江の開放 | 河川の自由航行 | 経済的開放 |
| 損害賠償 | ハルビン暴動などの被害補償 | 対露圧力 |
| 共同経営中止 | 満洲鉄道の共同管理拒否 | ロシア経済権益の排除 |
| モンゴルの電線・条約回収 | ロシアの対モンゴル進出阻止 | 北方防衛と主権確立 |
背後にある「日本との関係」
この清露交渉の背後には、日本の存在がありました。1905年11月に締結された日清協約によって、日本は清国に「満洲は清国の領土として尊重する」ことを約束する一方、清国は日本の南満洲権益を認める形になっていました。したがって清国の対露提議は、日本の外交的支援を受けながら、ロシアの北満洲支配を牽制しようとする動きでもあったのです。
当時の国際情勢
1906年初頭の東アジアは以下のような構図でした:
| 地域 | 主な支配・影響力 | 状況 |
| 南満洲(旅順・大連・長春以南) | 日本 | 南満洲鉄道・関東州経営を開始 |
| 北満洲(ハルビン・黒龍江方面) | ロシア | 鉄道と鉱山を保持し撤兵を遅延 |
| 朝鮮 | 日本 | 保護国化(1905年)で統監府設置 |
| モンゴル | 清国名義だがロシアが浸透 | 緩衝地帯化が進む |
清国としては、日本とロシアに国土を蚕食される中、「外交文書で主権を主張する」以外に手段がなかったのです。
歴史的意義
この「清国の対露提議」は、清国が満洲の主権回復を公式に訴えた最初期の外交行動の一つです。しかしロシアはこれに応じず、実際には北満洲における経済・軍事的影響力を維持しました。
一方で日本も南満洲を半ば植民地的に経営し、清国の主権回復は実現しませんでした。この結果、清朝はますます外国依存を深め、4年後(1910年)には内乱が激化し、1911年の辛亥革命へとつながっていくことになります。


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