(1906年1月13日、東京朝日新聞)
日露戦争が勃発した一昨年(1904年)5月5日、第二軍は遼東半島に上陸し、翌6日には早くも普蘭店(フランテン)を占領した。さらに同月26日、名高い南山会戦において、敵軍を厳しく打ち破り、これを寒からしめた。その後も、得利寺(とくりじ)・蓋平(がいへい)の各会戦を経て、ついで他の各軍との連携運動によって、遼陽(りょうよう)、沙河(さか)、奉天(ほうてん)の各戦においても、周到な戦略と巧みな戦術をもって戦い抜き、大小数十の戦闘で我が陸軍の武勇を十分に発揮した。
この第二軍司令部は、長い戦線の旅路を終え、陸路・海路いずれも無事に、ついに昨日(1月12日)、凱旋して帝都に帰還した。(以下略)
「奥司令官」とは誰か
記事の「奥司令官(おくしれいかん)」とは、奥保鞏(おく・やすかた)大将(1855–1930)のことです。彼は日露戦争中、第二軍司令官として1904年から1905年にかけて主戦場である南満洲(遼東半島方面)で戦い、奉天会戦までの主要戦闘を指揮しました。その功績により戦後には元帥陸軍大将に列せられ、「陸軍屈指の名将」と称えられました。
「梨本宮御凱旋」とは
同時に見出しにある「梨本宮御凱旋(なしもとのみや ごかいせん)」は、梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874–1951)が従軍していた第二軍司令部の随員として帰国したことを指しています。
梨本宮家は明治期の皇族の一門であり、梨本宮守正王は陸軍将校として戦地に赴いていました。皇族が従軍し、戦勝とともに帰国することは、国家的な勝利の象徴として新聞各紙が大きく報じる出来事でした。
第二軍の戦歴(記事中の地名の意味)
記事に列挙されている戦場は、第二軍が実際に転戦した主要な会戦地です。日露戦争における日本軍の戦線拡大の軌跡が、時系列で表されています。
| 戦場名 | 日付 | 概要 |
| 遼東半島上陸 | 1904年5月5日 | 第二軍(奥司令官)が大連湾付近に上陸開始。 |
| 普蘭店(フランテン)占領 | 1904年5月6日 | 上陸直後にロシア軍を撃破。 |
| 南山会戦 | 1904年5月26日 | 第二軍が要地「南山」を攻略。日露戦争初期の象徴的勝利。 |
| 得利寺・蓋平会戦 | 1904年6〜7月 | 南山以北のロシア軍を追撃。遼陽攻略準備。 |
| 遼陽会戦 | 1904年8〜9月 | 日本軍全体が初の大規模決戦を展開。第二軍も参戦。 |
| 沙河会戦 | 1904年10月 | 休戦期を挟まず継続的な戦闘。膠着戦の開始。 |
| 奉天会戦 | 1905年2〜3月 | 日露陸戦最大の決戦。日本軍の勝利により戦争終局へ。 |
これらはすべて、第二軍が中心的役割を果たした戦闘であり、奥保鞏の軍功が最も評価された理由となりました。
凱旋の時期と世論の空気
1905年9月にポーツマス条約で戦争は終結し、同年10月以降、日本軍は順次凱旋(帰国)を始めました。しかし、賠償金が得られなかったことから国内では日比谷焼打事件(1905年9月)が起き、民衆の不満が爆発。それでも、実際に帰国する将兵や将軍たちは「勝利の英雄」として迎えられ、新聞はその「凱旋の美談」を繰り返し報じました。
この記事は、そうした戦後の国家的祝賀ムードを象徴する報道の一つです。
「帝都凱旋」の意味
記事の結びにある「陸海共に無事、昨日をもって帝都に帰り来れり」とは、軍の司令部(および従軍将校たち)が正式に帰還し、天皇に戦勝を奉告するための行進(凱旋式)の準備に入ったことを意味します。当時の東京では、凱旋将兵を迎える行事が連日行われ、市民は日の丸を掲げ、祝賀行列を見物しました。
この記事の位置づけ
本記事は、軍功報道としてだけでなく、「戦争の終焉」と「国家的自負」の象徴的ニュースでした。
• 「南山・遼陽・奉天」と並ぶ戦場名の列挙 → 日本の近代戦争史を誇る修辞
• 「周密なる戦略、巧妙なる戦術」 → 欧米列強と肩を並べた“文明軍”としての自負
• 「陸海共に無事帰還」 → 国家秩序・勝利の完成を印象づける言葉遣い
つまりこの記事は、戦後日本のナショナル・プライドを支える新聞表現の典型例なのです。


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