引用:
(1906年1月8日、國民新聞)
第四次伊藤内閣が辞職したあとを受けて、桂内閣は明治34年(1901年)6月2日に組織された。それから在職4年8か月を経て、ついに本年(明治39年)1月7日をもって辞職した。およそ5年にわたる桂内閣の歩みは、一朝一夕に書き尽くせるようなものではない。
この内閣の事績は多く、その功績の詳細は改めて順を追って述べることとし、ここではひとまず、この4年8か月の間における閣僚の異動を記すにとどめる。
▲ 内閣発足当時の顔ぶれ
桂内閣は、伊藤博文侯爵によるいわゆる政党内閣のあとを継ぎ、まったく政党に関係のない新しい人物によって組織された。その顔ぶれは当時の予想を大きく超え、世間を大いに驚かせた。念のため、その組閣当時の閣僚を記すと次の通りである。
役職 氏名
内閣総理大臣(首相) 子爵 桂太郎
海軍大臣 山本権兵衛
陸軍大臣 子爵 児玉源太郎
逓信大臣(郵便・通信) 子爵 芳川顕正
内務大臣 男爵 内海忠勝
文部大臣 菊池大麓
農商務大臣 平田東助
司法大臣 清浦奎吾
大蔵大臣兼外務大臣 曾禰荒助
海軍大臣の山本権兵衛と陸軍大臣の児玉源太郎の両名は、伊藤侯とともに辞表を提出したが、辞表は天皇によって却下され、留任となった。
◆ 外務大臣の正式任命
内閣が組織された当初、外務大臣には小村寿太郎氏が内定していた。しかし当時、小村氏は北京公使として北清事変(義和団事件)の後始末にあたっており、帰国できなかったため、曾禰荒助氏が一時的に外務大臣を兼任した。同年9月、小村氏が帰国したので、9月21日付で小村寿太郎氏が正式に外務大臣に任命された。(以下略)
桂太郎と第一次桂内閣の成立(1901年)
桂太郎(1848–1913)は長州藩出身の陸軍軍人・政治家で、山県有朋の腹心として軍部を代表する実力者でした。1901年(明治34年)に、政党内閣であった第四次伊藤博文内閣が政友会との対立で崩壊すると、伊藤の後を継いで桂太郎が首相に就任。ここに第一次桂内閣が誕生しました。この内閣は政党勢力と距離を置いた官僚・軍部主導の「非政党内閣」であり、明治後期の「超然主義政治」の典型とされています。
「長命内閣」と呼ばれた理由
桂内閣は、当時としては異例の4年8か月もの長期政権を維持しました。当時の日本では政党抗争や元老の思惑によって内閣が短命に終わることが多く、5年近く続いた桂内閣は「長命内閣」として注目されました。
長期政権を維持できた要因には以下の点があります:
• 山県有朋による軍・官僚組織の強力な後援
• 天皇からの厚い信任
• 桂自身の調整力と冷静な行政手腕
• 政党(特に立憲政友会)の分裂による反対勢力の弱体化
桂内閣の主要な業績
第一次桂内閣の在任中(1901–1906)は、日本が帝国主義国家へと飛躍する時期でした。
主な実績・事件は次の通りです。
<分野・内容>
外交 日英同盟(1902)を締結、日露戦争(1904–1905)を主導
軍事 陸海軍の増強、戦時動員体制の確立
経済 外債発行による戦費調達、鉄道国有化構想の推進
社会 戦争による国民負担の増加、新聞・民衆運動の抑圧
教育 教育勅語精神の再強化、国民統合の強調
とくに、外相・小村寿太郎のもとで日英同盟と日露戦争を指導したことは、桂内閣の最大の外交成果といえます。
桂内閣の退陣(1906年1月)
日露戦争の勝利は日本に国際的地位の上昇をもたらしましたが、講和条約(ポーツマス条約)で賠償金を得られなかったことから、国民の不満が爆発しました。1905年9月の日比谷焼打事件をはじめ、全国で暴動が発生。政府批判が高まり、桂内閣はついに翌1906年1月7日に総辞職に追い込まれました。
新聞記事の意図と論調
『國民新聞』(黒岩涙香主筆)は、自由民権的な立場を持つ政論新聞で、しばしば官僚・軍部主導政治に批判的でした。しかしこの記事では、桂内閣の辞職を冷静に伝え、まずは閣僚の経歴を整理する形をとっています。これは、桂政権が日露戦争という国難を乗り切った「重政権」であることを認め、一方で「今後その功罪を検討する」という姿勢を見せる総括報道的トーンでした。


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