(12月16日・中外商業新報)
本日葬儀が行われた故・古河潤吉氏は、故・陸奥宗光伯爵の次男である。明治3年(1870年)10月4日に生まれ、幼少のころ古河市兵衛氏(古河財閥の創業者)の養子となった。潤吉氏は佐渡鉱山学校に入学して採鉱・冶金(鉱山や金属精錬の学問)を学び、その後明治20年(1887年)にアメリカに渡ってさらに研究を重ね、明治27年(1894年)に帰国した。
その後、明治28年(1895年)に足尾銅山の公害防止工事(予防工事)に着手した際、事業の困難や財政の逼迫が一時に襲いかかった。このとき、古河市兵衛氏は事後の大計(将来の経営方針)を書き残し、潤吉氏に一切を託した。
潤吉氏はそこで全ての事業を統括し、明治30年(1897年)以降は次第に施策が功を奏し、ついに今日の繁栄を築くに至った。この古河事業の発展は、すべて潤吉氏の尽力と経営努力の成果であると言ってよい。
義弟の虎之助氏は現在アメリカに留学しており、まだ若いが、潤吉氏は彼を実の子以上に深く愛していたという。
古河潤吉とは誰か
古河潤吉(ふるかわ じゅんきち, 1870–1905)は、明治の実業家であり、外務大臣・陸奥宗光の次男。古河財閥の創業者・古河市兵衛(1832–1903)の養子として育ち、鉱山経営・冶金技術に精通した人物です。彼は特に、足尾銅山(栃木県)の近代化と経営再建に尽力しました。
足尾は日本最大級の銅山で、明治以降の近代産業発展の基盤を築いた一方で、公害問題(足尾鉱毒事件)でも知られる場所です。
足尾銅山と潤吉の役割
明治20年代、足尾銅山は産出量こそ多かったものの、
・鉱毒による河川汚染
・製錬所の煙害
・経営上の赤字
など、多くの問題を抱えていました。
潤吉は米国留学で得た最新の鉱山技術を導入し、
・採鉱法・製錬法の近代化
・廃水処理の改善
・設備の合理化
を進め、古河鉱業の再建を成功させました。
古河市兵衛からの承継
古河市兵衛が亡くなる(1903年)前後、潤吉はすでに古河財閥の実質的な経営を担っていました。記事中の「事後の大計書を挙げて潤吉氏に委託せり」とは、古河市兵衛が後継者として潤吉に経営全般を託したことを意味します。つまり、古河財閥二代目の実質的経営者です。
義弟・虎之助
「義弟・虎之助氏」とは、古河虎之助(1874–1925)で、後に古河財閥の中心的人物となる人物です。潤吉の死後、虎之助が事業を引き継ぎ、古河鉱業をさらに発展させ、戦前の三大財閥の一角にまで成長させました。
記事の意義
この記事は、1905年に潤吉が死去した際の追悼記事であり、彼が技術者から経営者へと成長し、古河財閥の基礎を築いた功績を称えたものです。また、「足尾銅山予防工事」という言葉からもわかるように、当時はすでに鉱毒被害が社会問題化しており、彼の「予防工事」はその対策の一部として注目されていました。しかし実際には、抜本的な解決には至らず、のちに田中正造の運動などへとつながります。


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