(11月19日・東京朝日新聞、17日北京発)
11月17日午後3時、日清両国の全権代表は、北京東華門外の練兵場に設けられた会議場で初めて会談した。まず両者はそれぞれの**全権委任状(交渉権を正式に与えられた証書)**を示し合い、内容が完全なものであることを確認した。次に、会議の進め方や手続きを取り決めた上で、すぐに本会議に入った。日本側の全権代表は、まず「満洲に関する協定事項」を提出した。これに対し、清国側の全権代表は、「会議の後、できるだけ早く書面で正式な回答を提出する」と答え、この日は散会した。
なお、会議に出席する両国の書記官および随員は以下の通りである。
日本側:
• 山座政務局長
• 落合・鄭の両書記官
• 高尾書記生
清国側:
• 唐紹儀(総務部参議)
• 楊士騎(総務部参議)
• 鄒嘉来(外務部郎中=外務省中堅官僚)
• 金豊柄(日本留学生)
• 孫汝林
両国の全権代表は互いに打ち解け、率直に意見を交わしながら協議を行った。
時期と文脈
この記事は1905(明治38)年11月の記事で、つまり日露戦争の講和(ポーツマス条約)成立直後のことを報じています。
日露戦争によって日本は、ロシアの清国における利権(特に南満洲・遼東半島方面)を引き継ぐ立場になりました。ところが、これらの権益は「もともと清国の主権下にある土地」であったため、日本がロシアから引き継ぐにあたっては、清国政府との間で新たな協定を結ぶ必要があったのです。この記事は、まさにその「日清満洲協約」交渉の開始を報じたものです。
交渉の目的
この日清交渉の目的は、主に次の三点でした。
1. ロシアから日本へ移った権益の確認
(遼東半島南部の租借権、南満洲鉄道の敷設・運営権、鉱山・警備に関する権利など)
2. 満洲の治安・行政に関する取り決め
(日本軍の駐屯や鉄道警備、清国官憲との関係)
3. 清国の名目上の主権を尊重する建前の維持
この協定は、翌1905年12月に「日清満洲善後条約(満洲善後条約)」として締結されます。内容は表向き「満洲の平和回復」をうたうものでしたが、実質的には日本が満洲における支配権を合法化した条約でした。
関係者について
記事中に登場する人物は、いずれも当時の日中外交を代表する人物です。
• 山座円次郎(やまざえんじろう):外務省政務局長。満洲善後処理交渉の中心人物。
• 唐紹儀(とうしょうぎ):清国の外交官。のちに中華民国成立後、初代国務総理(首相)となる。
• 楊士騎(ようしき):清国の高級官僚。後に北京政府期にも要職を務める。
• 鄒嘉来(すう・からい):清国外務部の中堅官僚。
• 金豊柄・孫汝林:通訳や留学生出身の補佐官。日本語に通じ、交渉の橋渡し役を務めた。
歴史的意義
この交渉の結果、翌月に結ばれた満洲善後条約(1905年12月22日)によって、日本は以下の重要な権益を正式に得ます。
• 遼東半島南部租借権(旅順・大連の租借地)
• 南満洲鉄道(旧東清鉄道南部)およびその付属施設の経営権
• 鉱山採掘権・鉄道沿線の治安維持権(実質的な軍事支配)
これにより、日本は清国東北部(満洲)における経済的・軍事的支配体制の基礎を築きました。その後の南満洲鉄道株式会社(満鉄)設立(1906年)や、関東都督府の設置(1906年)などにつながっていきます。


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