(明治38年〔1905年〕11月12日、国民新聞)
東京市では、55万円から100万円の費用をかけて、5,000人から1万人を収容できる大公会堂を建設する計画がある。
この件はすでに市参事会(現在の市議会のような機関)で審議されており、松田秀雄(東京市参事会員)らが中心となって計画を進めている。
第二部:河野広中らの拘引事件
同日夜8時半ごろ、憲兵(軍の警察)二名(兵曹長と上等兵)が、政治家・河野広中氏の自宅に出向き、中川予審判事の発した令状を示して河野氏を逮捕・連行した。
これと前後して、山田喜之助、大竹貫一、櫻井熊太郎の三名も、同じく中川予審判事の令状によって、
憲兵の手で東京地方裁判所に拘引された。
罪名は「凶徒嘯集(きょうとしょうしゅう)に関するもの」だという。(=暴徒の集会や騒擾を計画・扇動した罪)
この記事は、日露戦争終結直後の1905年11月に東京で起きた、「戦後社会の混乱」と「政治的不安」を象徴する出来事を報じています。
◾ 大公会堂建設計画について
🔹概要
• 当時の東京市では、戦勝記念式典・講演会・議会・祝賀行事などを開くために、大人数を収容できる公共ホールの建設が求められていました。
• 現在で言えば「国際フォーラム」や「武道館」のような大規模公共施設計画です。
• 計画費は「55万~100万円」。当時としては非常に大規模な予算で、国家的・都市的威信をかけた建設構想でした。
🔹背景
• 明治38年は日露戦争が終結した年で、戦後処理と「文明国」への歩みが意識されていました。
• 戦争の講和条件は国民に不満が強く(賠償金なしなど)、同年9月に「日比谷焼打事件」が発生しています。
• そうした混乱を乗り越え、「新しい日本の首都にふさわしい文化施設を」という発想が、この「大公会堂建設計画」に表れていました。
※この構想は後に、「日比谷公会堂」などの公共会館建設の先駆けになったとも言えます。
◾ 河野広中らの拘引(逮捕)事件
🔹河野広中とは
• 自由民権運動の指導者で、明治憲法制定後も政界で活動。
• 戦後の講和条件(ポーツマス条約)に不満を持ち、国民の怒りを代弁する演説をしていました。
• しかし、政府は戦争直後の混乱を恐れ、「反政府運動の扇動」として弾圧を強めていました。
🔹「凶徒嘯集罪」とは
• 文字通り「凶徒(あばれ者)を集める罪」で、実際には「民衆を集めて暴動を起こさせた」「治安を乱した」などの容疑を意味します。
• この頃、東京では講和反対運動・社会主義集会・労働運動が活発化しており、政府はそれらを「凶徒嘯集」として一斉に取り締まっていました。
🔹この事件の位置づけ
• 1905年9月の「日比谷焼打事件」で政府・新聞社・警察が襲撃され、戒厳令が出されました。
• その後も民衆運動が続いたため、政府は政治家や社会運動家にまで取締りを拡大。
• 河野広中・山田喜之助らの拘引は、その一環です。
• つまり、戦後の不満鎮静化を狙った政治的弾圧事件でした。


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