(1907〈明治40〉年8月9日『東京朝日新聞』、8日京城発)
7日午前9時30分、李完用以下の各大臣が宮中に参内し、皇太子を立てる件について皇帝に上奏した。しかし、高宗は、「まず元老たちの意見も聞きたい」と述べ、午後4時30分、李根命ら数名を召して諮問した。その結果、英親王(英王坧)を皇太子とすることが決定され、その日の夜、次の詔勅(皇帝の命令)が発布された。
英王坧を皇太子とする。
皇太子冊立(立太子)の儀式は、宮内府掌礼院に命じて執り行わせる。
(皇帝の署名・御璽、各大臣の副署)
なお、このように立太子を急いだ理由は、義親王派と李埈鎔派の間で進められていた陰謀や暗闘を防ぐためであると伝えられている。
⚫︎ 高宗退位直後の後継者問題
1907年7月、高宗は日本の圧力を受けて退位し、皇太子だった純宗が即位しました。
しかし純宗には男子がいなかったため、新しい皇太子を早急に決める必要がありました。
そこで選ばれたのが、高宗の七男で当時10歳の英親王(李垠)です。
⚫︎ 英親王(李垠)とは
李垠 は1897年生まれで、1907年に皇太子となりました。
その後、
- 1907年末:日本へ留学
- 陸軍中央幼年学校・士官学校で教育を受ける
- 1920年:日本皇族の 梨本宮方子 と結婚
- 1910年の日韓併合後:李王家の当主となる
という経歴をたどります。
日本で育てられたことから、後に「日本化された皇太子」と評されることもあります。
⚫︎ 義親王派と李埈鎔派
「義親王派」
義親王
- 高宗の五男
- 成人しており政治経験もあった
- 宮廷内に一定の支持基盤を持っていた
「李埈鎔派」
李埈鎔
- 興宣大院君の孫
- 王位継承資格を持つ宗室(王族)
- 1890年代にも後継候補として名前が挙がった人物
つまり、皇位継承をめぐって複数の有力候補が存在し、宮廷内で派閥争いが起きていたのです。
記事のいう「陰謀暗闘」は、こうした後継者争いを指しています。
⚫︎ 日本統監府の意向
形式上は韓国皇室の決定でしたが、実際には日本統監府の強い影響がありました。
特に統監 伊藤博文 は、
- 成人して独自の政治行動を取りうる義親王よりも、
- 幼少の英親王の方が統制しやすい
と考えていたとみられます。
そのため、英親王の立太子は、日本の保護国支配を安定させるための政治的措置という側面を持っていました。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年8月7日に英親王(李垠)が皇太子に立てられたことを速報したものです。
ポイントを整理すると、
- 純宗に男子がいなかったため、後継者決定が急務となった。
- 元老への諮問を経て、10歳の英親王(李垠)が皇太子に選ばれた。
- 義親王派と李埈鎔派の対立を抑えることが、立太子を急いだ理由と報じられた。
- 実際には統監府の意向が強く働き、日本の保護国体制強化の一環だったと考えられる。
この立太子は、大韓帝国末期の宮廷政治と日本の対韓政策が交差した象徴的事件であり、3年後の1910年の日韓併合へとつながる重要な一歩でした。


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