(1907年3月20日、新聞日本)
博覧会の今昔(竹内久一)
(前略)
今回の東京府の博覧会は、戦争後に急いで準備されたもので、規模はそれほど大きくはないが、大阪のものよりは優れているように思われる。売店の配置も、上野の三橋入口から東照宮前あたりにかけて設けられており、どうやら大阪の博覧会を参考にしたらしく、位置や陳列の工夫も以前より進歩しているようだ。特に大阪の博覧会では外国の出品も多く、それらから学んだ点もあるので、今回の博覧会は確かに進歩しているだろう。
しかし出品物については、戦後という事情もあり、十分とは言えない。早く出された品は、従来からある見慣れたものばかりで、博覧会のために新たに作られたものは、開場までに間に合わないだろう。これまで京都には博物館、大阪にも博物館、名古屋にも博物館といった施設が各都市に整備され、府や県が奨励し、品評会や共進会なども開催されてきた。その結果、工芸など一般の人々の間にも、ようやく博覧会というものへの理解が深まってきたのは喜ばしいことである。それ以前は、ずいぶんと滑稽なことも多かった。
また、博覧会のたびに記念となる建築物を残してきた。たとえば京都の平安宮風の建物や、博物館内の美術館などである。今回の博覧会でも何か残すだろうが、いったい何になるのだろうか。おそらく酒造会社の展示場でも残るのではないか、などと言われている。
◾️ 博覧会ブームと近代化
明治時代の日本では、西洋に倣って博覧会が盛んに開催されました。これは単なる展示ではなく、
- 産業振興
- 技術普及
- 国威発揚
を目的とした国家的イベントでした。
特に影響が大きかったのは、1870年代以降に参加した万国博覧会(例:ウィーン万国博覧会)です。
◾️ 大阪と東京の博覧会
記事で言及されている「大阪の博覧会」は、例えば第5回内国勧業博覧会を指すと考えられます。
この博覧会は
- 外国展示が豊富
- 近代的な会場設計
で高く評価され、日本の博覧会の完成形ともいわれました。
今回の東京の博覧会は、その成功を模倣・発展させたものです。
◾️ 戦後という制約
ここでいう「戦役後」とは日露戦争の後を指します。
戦後は
- 財政難
- 物資不足
- 産業の疲弊
があり、出品物の質や量に制約があったと指摘されています。
◾️ 博物館・共進会の役割
記事で触れられる
- 京都・大阪・名古屋の博物館
- 共進会(地方産業展示会)
は、博覧会文化の「下地」を作った存在です。
たとえば、東京国立博物館のような施設は、博覧会と密接に関係して発展しました。
◾️ 記念建築という発想
博覧会では、単なる一時的イベントではなく、
- 記念建築
- 都市景観の整備
が重要視されました。
代表例は、平安神宮(1895年の博覧会に関連して建立)です。
■ まとめ
この記事のポイントは以下の通りです。
- 東京の博覧会は大阪を手本にして進歩している
- ただし日露戦争後のため出品内容は不十分
- 博覧会文化は博物館や共進会によって成熟してきた
- 博覧会は記念建築を残す都市開発の役割も持つ
つまり、博覧会は単なる展示会ではなく、日本の近代化を支える重要な制度だったことが読み取れます。

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