(1907年1月6日・福岡日日新聞)
暹羅政府が神戸の川崎造船所に注文した駆逐艦1隻(排水量380トン)と水雷艇3隻(各120トン)は、いずれも本年中に完成し、引き渡される契約である。
同国海軍が駆逐艦や水雷艇を建造・保有するのは今回が初めてであり、操艦などについては全く経験がないため、日本政府は好意として、日本海軍の手によってこれらの軍艦を暹羅まで回航する予定であるという。
さらに聞くところによれば、以前から暹羅政府は日本海軍の将校および下士官数名を教官として雇いたいと申し入れてきており、今回の回航要員は、そのまま同国に留まって教官として勤務することになる可能性が高い。
写真・図引用:https://x.com/kobe_np_syuppan/status/887876733898182657?utm_source=chatgpt.com
◾️ 暹羅(シャム)の近代化政策
19世紀末から20世紀初頭の暹羅(現在のタイ)は、欧米列強の植民地化を避けるため、軍制・行政・教育の近代化を急速に進めていました。特に海軍力の整備は、主権国家としての独立を維持する上で重要視されていました。
◾️ 日本造船業の国際的評価
日露戦争(1904–05年)後、日本の造船技術と海軍力は国際的に高く評価され、川崎造船所(現・川崎重工業神戸工場)は、軍艦輸出を担う代表的存在でした。
本記事は、日本が「軍艦の供給国」「軍事技術の提供国」としてアジアで存在感を高めていたことを示しています。
◾️ 「回航」と軍事顧問派遣の意味
単なる船舶売買にとどまらず、
- 日本海軍が操艦して暹羅まで届ける
- 将校・下士官が現地に留まり教官となる
という点は、日本が準同盟国的な立場で暹羅の軍事近代化を支援していたことを意味します。
これは、欧米列強ではなく「同じアジアの近代国家」である日本を選んだ暹羅側の戦略でもありました。
◾️ 日本外交史上の位置づけ
このような軍事技術協力は、
- 暹羅の独立維持
- 日本の「アジアにおける模範国家」イメージ形成
の双方に寄与しました。
後年のタイ海軍には、日本留学経験者や日本式訓練を受けた将校が多数存在するようになります。
◾️ まとめ
この記事は、
・ 暹羅の国家近代化
・ 日本造船業と海軍の国際的台頭
・ アジアにおける日本の軍事・技術的影響力拡大
を同時に示す重要な史料です。
単なる「軍艦受注記事」ではなく、明治日本がアジア秩序の中で果たそうとした役割を読み取ることができます。

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