(1907年2月10日 東京朝日新聞・神戸)
今回、韓国の亡命者であった朴泳孝氏は、大赦の恩命を受けることとなった。朴氏は、去る明治28年(1895年)に韓国内で内相という要職に就いていたが、その後政変に遭い、再び日本帝国へ亡命した。
亡命後は姓名を山崎正春と改め、神戸に居を定め、愛娘を招いて神戸女学校に入学させた。自身は書を揮毫して日本各地を巡ったり、兵庫の会下山(えげのやま)付近に朝日私塾を開いて、韓国からの留学生を教育したりした。また養鶏を行って自らの生計を立てるなど、比較的平穏な生活を送って今日に至っていた。
ところが今回、大赦の恩命を伝える密使ではないかと推測されていた韓国正領(高官)玄興氏と会見した結果、実際に大赦の沙汰を受けたことが確認された。そのため、朴氏はここ二、三日のうちに東京から神戸へ戻り、二十一日ごろまでに釜山へ渡航し、準備を整えたうえで京城(ソウル)に入る予定だという。
なお、玄正領は八日の夜に東京を発って神戸に到着し、九日に上海へ向けて出航した。
写真・図引用:https://www.y-history.net/appendix/wh1303-133_0.html?utm_source=chatgpt.com
◾️ 朴泳孝とは何者か
朴泳孝は、19世紀末の朝鮮王朝末期における開化派(改革派)政治家であり、甲申政変(1884年)やその後の改革運動に深く関わった人物です。日本との結びつきが強く、政変失敗後はたびたび日本へ亡命しました。
◾️ 韓国(大韓帝国)と日本
1907年当時、韓国(大韓帝国)は日本の強い影響下にあり、乙巳条約(1905年)によって外交権を失い、内政干渉も深まっていました。こうした中で行われた「大赦」は、国内融和と体制安定を図る政治的措置でした。
◾️ 亡命生活と教育活動
記事が詳述するように、朴泳孝は単なる亡命政治家ではなく、
- 日本名を用いた潜伏生活
- 韓国人留学生の教育
- 書や養鶏による自活
といった形で、日本社会の中に身を置いて生活していました。
これは、近代東アジアにおける亡命知識人の典型像を示しています。
◾️ まとめ
- 本記事は、韓国の改革派政治家・朴泳孝が大赦によって帰国を許されたことを伝えている
- 彼は政変後、日本で十数年にわたる亡命生活を送り、教育・文化活動を行っていた
- 大赦は、大韓帝国末期の不安定な政情の中で行われた政治的融和策であった
- 本件は、日本と韓国の関係、亡命者の役割、近代東アジア政治史を考える上で重要な史料である

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