(1906年4月5日・国民新聞)
統計局・統計協会・統計学社、帝国大学の統計学教授、その他統計界の有力者たちは、2日夜、児玉源太郎・台湾総督、後藤新平・民政長官、大島総長、祝局長らを富士見軒に招き、台湾で行われた国勢調査(戸口調査)の成功を祝う会を開いた。
晩餐が終わるころ、その日の司会者であった 阪谷財務大臣(阪谷芳郎) が祝辞を述べ、台湾での調査成功を祝い、シャンパンで乾杯した。続いて 世良太一氏 が挨拶を述べた。本来の挨拶役である 杉亭二氏 は眼の病気で出席できず、世良氏が代理を務めた。そのあと、児玉総督 が阪谷蔵相の祝辞に答え、
台湾国勢調査の経過を説明し、最後に、「日本本土で国勢調査を実施するには、まず周囲の環境を整えねばならない」と述べて席に戻った。
すると 呉文聴(ご ぶんちょう)氏 が「この場で一言述べておかねばならない」と立ち、統計資料が不完全であることを指摘し、さらに後藤長官が台湾で行った演説について弁解をした。その後、呉氏は別席に移ったが、
出席者たちは後藤長官に演説を求めた。しかし後藤長官は辞退して話そうとしない。児玉総督が「親父(=自分)がいるとやりにくいだろう」と言って帰ってしまうと、再び後藤長官に演説が求められた。
すると後藤は、「いや、親父がいなくても、できない演説はできません」と固辞したが、強く求められて壇上へ立った。後藤長官は、
・学者たちはもっと統計の思想を平易に、一般に分かりやすく広めるべきである
・材料(データ)が不完全なら、不完全なりに上手に料理(活用)するべきだ
と述べ、先ほどの呉氏の主張とは逆の見解を示した。
その後は思い思いに談話し、午後9時ごろ散会した。なお、今月の統計協会の例会では、祝局長による「台湾土地調査」に関する講演が行われる予定である。
■ 台湾の「戸口調査(国勢調査)」とは?
この記事の「台湾国勢調査」とは、1905年に台湾総督府が実施した 大規模な人口調査 のこと。
日本が台湾を統治したのは1895年からですが、当初は治安が悪く、行政基盤も整っていなかったため、本格的な人口調査はできませんでした。
しかし、1900年代に入ると、
・児玉源太郎(総督)
・後藤新平(民政長官)
の改革で統治が安定し、植民地統治の基礎として、住民情報を把握する必要が生じた のです。1905年の戸口調査は、その成果の象徴でした。
■ なぜ「祝賀会」なのか?
当時としては、
・広い地域で
・膨大な人口を
・比較的短期間で
・記録的に正確に調査した
こと自体が「行政の成功」でした。統計界・政府関係者にとって大きな出来事で、これを祝う会が開かれたわけです。
■ 対立:呉文聴 vs 後藤新平
この記事の面白い点は 統計データの完全性をめぐる対立 です。
●呉文聴(統計学者)
・データが不完全
・政治的に美化しすぎている
・統計は厳密であるべきだ
という立場。
●後藤新平(民政長官・台湾行政の実務者)
・完璧なデータは得られない
・不完全なら不完全なりに活用すべき
・まず行政に使えるデータを作ることが重要
という「実務優先」の考え。
この衝突は、統計学者と行政官の立場の違いがそのまま出たものと言えます。
■ 児玉総督の発言の重要性
児玉源太郎は、「本土(日本)で国勢調査をするには、まず社会環境を整備せよ」と言っています。
ここからわかること:
・1905年の時点で、日本本土にはまだ近代的な国勢調査制度がなかった
・台湾での成功は、本土の「将来の国勢調査」への教訓として評価されていた
実際、日本で初めての全国規模の国勢調査が行われるのは 1920年(大正9年)。この台湾調査は、その先駆けと評価されました。
■ 場所:富士見軒
富士見軒は当時の東京の有名洋風レストラン。政府高官・文化人の宴席に使われる格調高い場所でした。宴席でのやりとりも新聞の読みどころで、後藤長官の「親父がいてもいなくてもできない演説はできない」という冗談めいたやり取りは、当時の政治家の人間関係をよく示しています。


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