(1906年2月2日、東京朝日新聞)(2月1日、京城=現ソウル発)
2月1日午前10時、韓国(大韓帝国)の首都・京城において、日本の統監府の職員たちは全員そろって出勤した。午前11時には、統監代理の長谷川大将が職員一同に向かって訓示の演説を行い、さらに職務に励むよう訓戒を述べた。続いて、韓国駐在の林権助公使(日本公使)が挨拶を行い、最後に統監府の鶴原長官が答辞の挨拶をした。その後、一同は祝いのために三杯の盃を酌み交わし、天皇陛下の万歳を唱和して式を終えた。
式の終了後、長谷川統監代理は各部署を巡回して視察を行った。この式は、あくまで統監府が業務を開始するための簡単な儀式にすぎず、本格的な開庁式(正式な祝典)は、今後、初代統監・伊藤博文が着任したのちに改めて挙行される予定である。
「統監府」とは何か
「統監府(とうかんふ)」とは、日露戦争後の1905年(明治38年)に日本が大韓帝国に設置した行政機関で、日本が韓国を保護国化(実質的な支配)するための中枢機関でした。
• 設置根拠:1905年11月17日調印の「第二次日韓協約」
• 本部所在地:京城(現在のソウル)
• 初代統監:伊藤博文
• 役割:• 韓国の外交権を日本が掌握
• 韓国政府を「監督・指導」する名目で内政干渉
• 実質的に日本の「準植民地統治機構」として機能
つまり、この記事が伝えているのは、日本による朝鮮半島統治の第一歩が実際に始動した瞬間なのです。
なぜ「代理」が式を行ったのか
記事中に登場する「長谷川大将」とは、後に朝鮮駐箚日本軍司令官となる 長谷川好道(よしみち) 大将のことです。初代統監である伊藤博文はまだ京城に着任していなかったため、長谷川が 統監代理(臨時の責任者) として事務開始の儀式を執り行いました。
したがって、この記事の「開務式」はいわば「仮開庁式」であり、正式な「開庁式」は後日、伊藤の着任をもって盛大に行われます。
伊藤博文の統監就任の意味
伊藤博文はこのとき、日露戦争の勝利によって高まった日本の国際的地位を背景に、「韓国の近代化を支援する」という名目で統監に就任しました。
しかし実際には以下のような政策を進め、韓国の自主性を奪っていきます。
• 韓国の外交権を日本が完全掌握(実質的な保護国化)
• 日本人顧問の派遣による内政干渉
• 鉄道・通信・金融などの制度を日本主導で再編
• 韓国軍の縮小・廃止
この体制のもとで、韓国の政治は事実上日本に従属することとなり、やがて 1910年の「韓国併合条約」 へとつながっていきます。
記事に見られる明治時代の視点
この記事は「東京朝日新聞」による報道で、日本側の行政的・儀礼的な出来事を淡々と伝えている点が特徴です。
• 「天皇陛下の万歳を唱へ」など、日本の主権を前提とした視点で書かれている。
• 韓国側の反応や状況は一切記されていない。
• 「勤勉を望み」など、官僚制的な秩序の強調。
これは、当時の日本国内において「朝鮮統治=文明化・近代化の使命」として正当化されていたことを反映しています。


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