1906年01月30日 札幌・ヱビス・朝日の三麦酒合同

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.35

(1906年1月30日、東京朝日新聞)
 札幌(札幌麦酒会社)、日本(恵比寿麦酒会社)、大阪(朝日麦酒会社)の三つのビール会社は、昨日そろって臨時株主総会を開き、すでに発表されていた合併条件に異議なく賛成し、その場で三社間に電報を送り合って、正式に合併の成立を確認した。
 新会社の設立総会は3月下旬ごろに開かれる予定である。新会社の名称は 「大日本麦酒株式会社」。資本金は 560万円。そのうち 418万5,000円が払込済み141万5,000円が未払込である。本社は東京に置き、支社を札幌と大阪に設置する。本社事務所は東京・目黒の「日本麦酒醸造会社」(恵比寿ビール)本社を使用する予定である。新会社の役員は、おそらく次のように決まるだろうと伝えられている。
  • 社長:日本麦酒の 馬越恭平氏
  • 専務取締役:札幌麦酒の 植村澄三郎氏
  • 専務取締役:朝日麦酒の 生田秀氏
 また、各社がこれまで使用していた商標(ブランド名)はそのまま使い続ける。品質・価格も従来通りで、値上げなどは一切行わない方針である。新会社は主に 朝鮮半島をはじめ、南洋(東南アジア)・インド方面への輸出を積極的に進める予定で、すでにインドへは視察員を派遣したという。
 なお、東京麦酒(キリンビール)や兜麦酒(カブトビール)との合併交渉は現時点では行っていないが、もし相手から希望があれば、新会社としては将来的な合同にも前向きな方針だという。

明治後期のビール産業の競争激化

 19世紀末から20世紀初頭の日本では、ビール消費が急速に拡大し、各地に多くの醸造会社が乱立していました。当時の主なビール会社は次の通りです。

会社名 創業 本拠地 主なブランド
札幌麦酒会社 1876年(明治9年) 北海道・札幌 サッポロビール
日本麦酒醸造会社 1887年(明治20年) 東京・恵比寿 ヱビスビール
大阪麦酒会社 1889年(明治22年) 大阪 朝日ビール
キリン麦酒会社
(ジャパン・ブルワリー)
1885年(明治18年) 横浜 キリンビール
兜麦酒会社 1889年(明治22年) 東京 カブトビール

 このころ、日本のビール市場は飽和状態に近く、過当競争によって 価格の下落・利益の圧迫 が深刻化していました。

合併の目的 ― 経営の安定と輸出拡大

 札幌・ヱビス・朝日の三社は、いずれも国産ビールの有力企業でしたが、それぞれが生産設備を拡大する一方で、販売競争により疲弊していました。そのため、1906年に三社が合併して「大日本麦酒株式会社」を設立。これにより国内市場をほぼ独占する巨大企業が誕生しました。合併の主目的は以下の通りです。
  1. 過当競争の回避と価格安定
  2. 製造コスト削減と流通の統合
  3. 海外市場(特に朝鮮・南洋・インド)への輸出拡大
 記事にある「清韓を始め、南洋印度地方への輸出」とは、当時の日本が日露戦争(1904–05)で勝利した直後で、朝鮮半島や南洋に進出し始めた「帝国経済圏拡大」の流れを反映しています。

新会社「大日本麦酒株式会社」の成立と影響

項目 内容
設立 1906年(明治39年)3月
本社 東京・目黒(恵比寿)
初代社長 馬越恭平
主なブランド サッポロ・ヱビス・アサヒ
支配的地位 戦前期の国内ビール市場の約70%を占有

 大日本麦酒はその後、国内市場を事実上独占する「巨大ビール会社」となり、第二次世界大戦期までその体制が続きます。しかし、戦後GHQの財閥解体政策により、1949年に「サッポロビール」と「アサヒビール」に分割されました。したがって、この記事はまさにその統合の出発点を報じたものです。

当時の社会的意義

  • 当時の日本では、日露戦争直後で「国家的産業統合」「大企業化」が進んでおり、鉄鋼・造船・紡績・銀行などでも同様の再編が起きていました。
  • 「大日本麦酒」という名称には、こうした「国産工業の発展を国家の威信と重ねる」時代精神が表れています。
  • 記事末尾の「キリン・カブトとも将来的に合同の可能性あり」という一文は、まさにその“産業統合ブーム”を象徴しています。

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