(明治38年11月25日・東京朝日新聞)
東京医士報国会の解散式における、小池軍医総監の演説によれば、日露戦争における我が軍の損害は次の通りである。
• 戦死・戦傷など:21万8,429人
• 病気による患者:22万1,136人
この両者の数がほぼ同じであるというのは、古今東西の戦史においても例を見ないほどの優れた成績である。これはもちろん、近年の医学・衛生学の進歩の成果によるものであるが、その直接的な要因については、今なお軍医当局が詳細に研究中である――とのことであった。
日露戦争における「人的損害」の概要
この記事は、日露戦争(1904–1905)が終結した直後に発表された日本軍の損害統計を報じています。当時、陸軍軍医総監だった小池正直(こいけまさなお)が、「東京医士報国会」の解散式で演説し、初めて公式な数字を明らかにしました。
| 区分 | 人数 | 内容 |
| 戦死・戦傷など | 218,429人 | 戦闘による死者・負傷者 |
| 病者 | 221,136人 | 疾病による負傷・病死・戦闘不能者 |
| 合計 | 約43万9千人 | 総動員兵力(約110万人)の約40% |
「病者と戦傷者の数がほぼ等しい」という評価の意味
小池軍医総監が述べたように、戦争での損害において「病気による死傷」が「戦闘による死傷」と同程度というのは、当時としては画期的な成果でした。なぜなら、それ以前の戦争では、戦闘よりも病気で命を落とす兵士の方がはるかに多かったからです。
例を挙げると:
| 戦争 | 病死者と戦死者の比率 | 備考 |
| ナポレオン戦争 | 約7:1 | 病気での死が圧倒的 |
| クリミア戦争 | 約10:1 | 病死が戦死の10倍 |
| 日清戦争(1894–95) | 約4:1 | 日本軍の病死者約4万人、戦死者約1万人 |
つまり、日露戦争では病死者が大幅に減少し、戦死傷者とほぼ同数になったことが、「軍医学の大進歩」として高く評価されたのです。
「東京医士報国会」とは
「東京医士報国会」は、日露戦争中に設立された医師たちの戦時支援団体です。前線での医療支援・衛生指導・義援活動などを担っていました。
戦争終結後、役割を終えたため解散式が行われ、その席上で小池軍医総監が衛生学上の成果を報告したのです。
背景:軍医制度と衛生学の進歩
日露戦争では、日本軍の衛生管理が飛躍的に進歩しました。これは、明治期に陸軍がドイツ軍医学を取り入れ、科学的な衛生・防疫体制を整えた成果です。
主な改善点:
• 野戦病院・臨時病舎の拡充
• 上下水・飲料水の衛生管理
• 伝染病(コレラ・チフス・赤痢)対策の徹底
• 脚気(ビタミンB1欠乏症)対策の試行
• 予防接種・防疫検査の導入
特に、森鷗外や小池正直らの世代が推進した「軍陣衛生学」の体系化は、この戦争で日本軍の死者数を大幅に抑えることに成功しました。
ただし「好成績」の裏側
小池軍医総監の言う「良成績」は、あくまで当時の軍医的評価であり、実際には約43万人が死傷または病気で倒れたことを意味します。戦死者だけでも約9万人、病死者約5万人にのぼり、これは当時の国力にとって極めて大きな犠牲でした。また、脚気の原因(ビタミンB1欠乏)についてはまだ解明されておらず、戦後においても「軍食改革」や「脚気原因論争」が続くことになります。
歴史的意義
この記事は単なる戦後報告ではなく、日本が「近代的な衛生国家・科学的軍隊」であることを国内外に示す“国威発揚”報道の性格も強く持っています。
つまり、
「我が軍は戦だけでなく、衛生でも世界一流になった」
という明治国家の自負を象徴する記事でした。


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