1905年09月01日 日露講和条約成立

軍事・騒乱

交渉が成功するのか、失敗するのか。
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引用:新聞集成明治編年史 第十二卷

1905年9月1日 東京朝日新聞
○国民新聞の報ずるところによれば、講和条件の主要な点は次のとおりとされている。
・樺太の分割は北緯50度を日露の境界とする、というものである。
・つまり、徳川時代に露国と折衝した目的を今日に至って達したとされる。
・さらに、樺太に関しては日露いずれも兵備を行わないことに定められている。
・朝鮮についても、北境で露国と境を接する区域は、互いに兵備を置かないことに定められている。
・東清鉄道を日本の有に帰するべき分は、ハルビンの南テフシュン駅より以南の部分とする。
・捕虜賠償金は約1億5千万圓との説がある。
また、沿海州沿岸の漁業権については、日本と露国の双方が均一の権利を有することに定められている。

 7月頃から新聞紙面に講和条件の内容が出るようになっていましたが、9月1日、ついにアメリカの調停による講和が成立し、最終の講和条件と思われる内容が報じられました。
 しかし、多大な戦費と国民の犠牲による勝利に対して、この講和条件は日本にとって非常に厳しく、多くの国民は不満を持ったようです。

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