(1906年3月18日・東京朝日新聞)
無線電話の研究に成功した海軍技師・木村駿吉氏についてはすでに報じたが、今回は彼のこれまでの経歴と、発明に至る動機について、聞き取り得た内容を紹介する。
◆ 物理学の教員として
木村氏は慶応2年(1866年)10月2日の生まれで、数え年で41歳。明治23年に第一高等中学校(現・東大教養学部の前身)教諭となり、明治29年には第二高等中学校教諭に転じて物理学を担当した。学校向けの著書もあり、広く使われている。
◆ 海軍内の「電気狂」
木村氏が海軍に関わるようになったのは明治33年3月で、海軍大学校の教官となり、無線電信調査委員を命じられたことがきっかけである。これが氏の電気関係の発明の出発点であり、海軍内の同僚は彼の熱心さを評価して「電気狂(電気マニア)」と呼んだ。
◆ 無線電信の成功
海軍大学校の無線電信調査委員会には海軍将校や外部の学者もいたが、まず委員たちは「どの方式(どのメーカーの装置)を採用すべきか」という点だけを決めた。その後、木村氏は研究のため明治34年10月にイギリスへ出張し、35年12月に帰国した。
そして翌36年1月、海軍で初めて横須賀・長浦に無線電信所を設けることになり、木村氏はその勤務に就いた。ちょうど日露戦争が始まる時期で、海軍は直ちに彼の研究成果を実戦に応用したが、まったく問題はなかった。この功績により、木村氏はすでに勲五等双光旭日章を授与されている。
◆ 無線電話発明の動機
戦争が終わった後も、木村氏は引き続き長浦水雷術練習所で無線電信教育を担当していた。しかしその教授法は普通とは違っていた。自分が理解していることを順番に教えるのではなく、あえて「分からないこと」から逆に教えていき、最終的に理解にたどり着く、という独特の方法であった。
これが新しい発明のきっかけともなった。ある日、この方法で講義の試験中、偶然にもある“ヒント”に触れた。それを見逃すはずがなく、さらに研究を重ねて試験をすすめた結果、ついに無線電話の発明を成し遂げたのである。
■ 木村駿吉とは?
木村駿吉(1866–1938)は日本の無線通信技術の草創期を支えた物理学者・海軍技師 である。
- 元は高等中学校の物理教員
- のち海軍大学校に招聘
- 無線電信の研究を担当
- 日露戦争期の海軍通信整備に貢献
特に「日本独自の無線技術開発」を進めた先駆的存在。
■ 当時の「無線電話」事情
1900年代初頭は、世界的に無線電信(モールス信号)は普及し始めていたが、“人の音声をそのまま送る”無線電話は、各国がしのぎを削る最先端技術 だった。
- 欧米ではフェッセンデンらが実験中
- ベル研究所も研究段階
- まだ実用化には遠い
そんな中で、日本人の木村が独自に 無線で人の肉声を送る方法 を発明した、と新聞が紹介している。
実際の技術は
- 火花式送信機の改良
- 音声変調(AMの原始的なもの)
などが含まれ、まだ初期的ではあったが画期的だった。
■ 日露戦争と無線電信
日露戦争(1904–1905)は 世界で初めて無線電信が大規模に活用された戦争 である。
- 日本海軍は無線通信の整備に熱心
- 連合艦隊の情報伝達を支えた
- 対馬海戦でも無線連絡が勝利に貢献
木村はこの無線設備構築に深く関わっており、新聞記事はその功績を紹介したうえで「さらに無線電話まで発明した」と伝えている。当時の日本にとっては 技術的国家威信に関わる大ニュース だった。
■ 木村の“逆向き講義法”と発明
記事は木村の特徴として「分からない部分から逆に解いていく」という独特の思考法を強調する。
これは当時一般の読者に、
- 木村の独創性
- 日本人でも世界最先端の発明ができること
を印象づけるための描き方でもある。
<まとめ>
この新聞記事は、日本海軍の技師・木村駿吉が無線電話の発明に成功したというニュースを紹介し、その人物像と発明までの経緯を描いたものです。
背景には
- 日露戦争を通じて無線技術が急速に重要になったこと
- 日本が西欧と肩を並べる技術大国を目指していたこと
- 科学技術者の国威発揚的な扱い
といった当時の時代状況があります。


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