(明治38年〔1905年〕11月6日、東京朝日新聞)
韓国駐在大使に任命された伊藤博文侯は、11月5日午前9時過ぎ、滄浪閣(大磯の別邸)から大磯駅に到着し、列車の到着を待った。午前9時29分着の列車で、随行員の都筑馨六(枢密院書記官長)ら一行が東京から到着すると、伊藤侯は直ちにその列車に乗り込み出発した。
大磯駅まで見送りに来たのは、山縣有朋侯、清浦奎吾・大浦兼武の両大臣、周布公平・神奈川県知事、韓国公使のほか、韓国人二名、原敬、秋田正久ら数十名であった。
1. 伊藤博文の韓国派遣
• この記事は、伊藤博文が初代「韓国統監」として赴任するために出発した場面を伝えています。
• 「遣韓大使」とあるのは、正式には「特派大使」としての派遣であり、その任務は極めて重大でした。
2. 直前の国際状況
• 1905年9月、日露戦争がポーツマス条約で終結し、日本は朝鮮に対する優越権を国際的に認められました。
• それを受けて日本政府は朝鮮半島での影響力を一気に強め、朝鮮を事実上の保護国にしようと動き始めます。
3. 伊藤の特別任務
• 伊藤が担っていた「特別重大の任務」とは、まさに 第二次日韓協約(乙巳条約)を成立させることでした。
• この条約により韓国の外交権は日本に移り、統監府が設置され、韓国は事実上の植民地化への道を進みます。
• 伊藤博文は「穏健派」とされ、当初は韓国皇帝高宗に対して「改革の助言をする」と説明していましたが、実際には外交権の剥奪が任務の核心でした。
4. 記事の書き方の特徴
• 新聞記事は、伊藤博文の出発を「重大任務を帯びて」とだけ表現し、具体的な任務(=外交権奪取)には触れていません。
• 当時の新聞は、外交交渉の機密性や世論操作の意図もあり、あえて曖昧な表現をしていたと考えられます。


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