(1907〈明治40〉年8月6日『読売新聞』)
ヨーロッパでは、イギリスを中心としてフランス・ロシアの三国が平和的な大きな連携を築きつつあり、その流れは次第に極東にも及んでいる。まず日英同盟があり、それに続いて日仏協約が成立し、さらに日露協約もすでに締結されたと伝えられている。
このようにイギリス・フランス・ロシアの三国が接近したことは、ヨーロッパ外交の大きな変化であると言える。そして、オーストリア=ハンガリー、イタリア、スペインなどの国々も、自然とこの協調の輪に加わろうとしているように見える。一方で、最近ロシア皇帝とドイツ皇帝の会談が行われた。表向きには、バルカン半島問題について両国の方針を調整するためだと言われている。
しかし、外交手腕に長けたドイツ皇帝が、その問題だけを目的としてロシア皇帝を招いたとは考えにくく、その裏にはさまざまな思惑があると多くの人は見ている。また別の見方では、ドイツ皇帝は、この会談によって各国に「ドイツとロシアは接近している」という印象を与え、イギリス・フランス・ロシアによる平和的な協調体制に対して、自国の立場をあえて曖昧にしようとしているのではないか、とも考えられる。
いずれにしても、この会談はドイツ皇帝が外交上の駆け引きとして利用しようとした演出にすぎないだろう。特に両国の外務大臣まで同行させたことからも、その周到な準備ぶりがうかがえる。しかし、この出来事によってヨーロッパの平和的な協調体制が大きな影響を受けることはないだろう。
写真・図引用:https://gakusyu.live/2025/09/06/triple-alliance-triple-entente/
⚫︎ 「同盟ばやり」の時代
1907年は、第一次世界大戦の約7年前にあたります。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、各国は安全保障のために次々と同盟や協約を結び、「同盟外交」の時代となっていました。
大きく分けると、
- 三国同盟
- ヴィルヘルム2世率いるドイツ帝国
- オーストリア=ハンガリー帝国
- イタリア王国
に対し、
- 三国協商(後のTriple Entente)
- イギリス
- フランス
- ロシア
という二大勢力が形成されつつありました。
この記事はまさに、その流れをリアルタイムで伝えています。
⚫︎ 日英・日仏・日露協約
日本は日露戦争に勝利したものの、国際的には列強との協調が必要でした。
1905〜1907年には、
- 1905年 日英同盟改定
- 1907年 日仏協約
- 1907年 日露協約
が相次いで成立します。
これらはいずれも、
- 朝鮮・満州での勢力範囲を調整する
- 極東で戦争を避ける
- 日本を列強外交の一員として認める
という意味を持っていました。
この記事は、この流れを「欧州の平和的団結が極東まで広がった」と評価しています。
⚫︎ ロシア皇帝とドイツ皇帝の会談
記事が触れているのは、
- ニコライ2世
- ヴィルヘルム2世
の会談です。
当時最大の懸案は、
- バルカン半島
- オスマン帝国の衰退
- オーストリアとロシアの対立
でした。
読売新聞は、「ドイツ皇帝は外交上の演出としてこの会談を利用している」と見ています。
これは当時の新聞らしい外交評論です。
実際には、その後もドイツはロシアとの関係改善を模索しましたが、最終的にはイギリス・フランス・ロシアの協商体制が強まり、第一次世界大戦では対立することになります。
⚫︎ 記事が示す当時の楽観論
1907年は、
- 日露戦争終了(1905)
- 第一次モロッコ事件終結
- 英露協商成立
などにより、「列強同士は話し合いで平和を維持できる」という期待が広がっていました。
この記事も、「欧州の平和は揺るがない」と結論づけています。
しかし、そのわずか7年後の1914年には、サラエボ事件を契機として第一次世界大戦が勃発し、この楽観論は崩れ去ることになります。
⚫︎ まとめ
この記事は1907年時点の国際情勢を論じた外交評論であり、
- 英・仏・露の接近を「平和的団結」と高く評価し、
- 日本も日英・日仏・日露協約によってその一員となったことを歓迎し、
- 独露首脳会談については「ドイツ皇帝による外交的パフォーマンス」と分析しています。
後世から見ると、「欧州平和は影響を受けない」という見通しは結果的には外れました。しかし、この記事は第一次世界大戦直前の国際社会が、なお外交による均衡と協調を期待していた空気をよく伝える貴重な史料といえます。

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