(1907年7月21日・東京朝日新聞)
ハーグ密使事件が世間で大きな問題となり、日本国内でも世論が激しく反応し、外務大臣も重大事だと受け止めていた。そのため韓国政府側は、自ら何らかの対処を行わなければならないと考えたようである。連日の閣議の結果、「皇帝の譲位」が最も適切な解決策であるとの結論に達した。7月16日夜、総理大臣が皇帝に拝謁し、譲位が避けられないことを奏上した。その後も大臣たちは毎晩連れ立って宮中に入り、同様の進言を行ったが、皇帝は怒り、受け入れなかった。
一方、皇帝は17日夜に侍従を派遣し、統監との会見を求めた。しかし外務大臣がまだ到着していなかったため、一度は断られた。その後、再三の要請によって統監は17日午後5時に参内した。皇帝は密使事件について弁明した後、譲位について統監の意見を尋ねた。しかし統監は、「譲位は韓国皇室の重大事であり、自分は皇帝の家臣ではないので意見する立場ではない。また、この件について内閣から相談も受けていない」と答えて退出した。
その夜、大臣たちは再び譲位を勧めたが、皇帝は最後まで拒否した。しかし大臣たちの強い説得の末、元老会議が開かれ、午前1時頃に譲位が決定された。午前3時には譲位の詔書が発布された。さらにその夜、法部大臣が統監邸を訪れ、「これは皇帝自身の意思であり、他人の強制ではない。以前から皇太子に政治を任せたいと考えていたが、今がその時期だと判断した」と説明した。
ただし民衆が誤解し暴動を起こす危険があるため、日本側に鎮圧と警備を依頼した。また韓国軍の一部にも激昂する動きがあり、日本軍の一部が京城に入り、主要地点の警備を行うことになった。
写真・図引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ASunjong_of_the_Korean_Empire_02.jpg?utm_source=chatgpt.com
この新聞記事は、1907年のハーグ密使事件→高宗退位→韓国統治強化という一連の流れの真っ只中の記事です。
時系列で整理すると次のようになります。
- 韓国皇帝高宗は、日本による保護国化(1905年の乙巳条約)に不満を持っていた
- 密かに使節を送り、オランダ・ハーグの国際会議で列強に支援を求めた
- しかし会議参加は拒否された
- 日本側は「保護国の外交権を無視した行動」と強く反発
- 韓国内閣(李完用ら)は責任問題として高宗退位を進言
- 皇帝高宗は退位し、皇太子純宗が即位した
- その直後に韓国軍解散が行われ、各地で義兵闘争が激化した
◾️ まとめ
この事件の歴史的意味は非常に大きく、次の3点に集約できます。
- 韓国皇帝高宗の政治的失脚
- 日本統監府の支配強化
- 韓国軍解散と抗日武装闘争の拡大
1905年の保護国化と1910年の韓国併合の間で、1907年は転換点になりました。
「外交権喪失」からさらに一歩進み、韓国の内政そのものが日本の影響下に置かれていく時期です。

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