(1906年10月11日 国民新聞)
早稲田大学に縁故のある人々の計画によって、保険会社を創立しようという構想があったが、8日午後2時、東京商業会議所において発起会が開かれた。この会合では前島男爵を座長とし、仮定款その他の申請書類を決議したうえで、社名を日清生命保険株式会社、資本金を100万円、株式は2万株とし、1株50円とすることなどを決定した。
また、前島男爵を委員長とし、久米良作、牟田口元学、中野武営、森村開作、山田英太郎、鈴木寅彦、田中唯一郎、増田義一、池田龍一、金深種次郎、石川徳右衛門、大浜忠三郎の諸氏を創立委員に選任した。
さらに、渋沢栄一、村井吉兵衛、相馬永胤、児島惟謙、根津嘉一郎、佐竹作太郎、土子金四郎、鳩山和夫、高田早苗、天野為之、浅田徳則、白井遠平、三枝守富、田中穂積(以上東京)、小野光景、茂木保平、左右田金作、樋口登久治郎、阿部幸兵衛、来栖壮兵衛、渡辺和太郎、斎藤忠太郎(以上横浜)、松本正太郎、山口玄洞、宅徳平(以上大阪)、藤原忠一郎(京都)、上遠野富之助(名古屋)の諸氏を発起人として名を連ねた。
なお、大隈伯爵(大隈重信)もこの事業を熱心に支持しているという。
この記事は、明治後期における生命保険業の拡大と、私学・人脈ネットワークを基盤とした企業創立を背景としています。
◾️ 明治後期の生命保険ブーム
1900年代初頭、日本では
- 産業化・都市化の進展
- 俸給生活者(サラリーマン層)の増加
- 家族扶養意識の高まり
を背景に、生命保険への関心が急速に高まりました。
明治生命、日本生命、帝国生命などがすでに成長しており、「保険業は将来性のある近代産業」と認識されていた時代です。資本金100万円という規模は、当時としても中堅以上の本格的保険会社でした。
◾️ 早稲田大学人脈の役割
この記事の最大の特徴は、「早稲田大学関係者が中心となって創立」という点です。
早稲田大学は、
- 政治・経済・法律分野に人材を輩出
- 官界・実業界・言論界に強い人的ネットワーク
を形成しており、大学人脈を基盤にした会社設立は、この時代にしばしば見られました。
この会社は、学閥的ネットワークを近代企業へ転化する典型例といえます。
◾️ 錚々たる発起人の顔ぶれ
発起人には、
- 渋沢栄一(日本資本主義の父)
- 根津嘉一郎(東武鉄道などの実業家)
- 鳩山和夫(法学者・政治家)
- 高田早苗(早稲田大学総長)
など、政財界・学界の有力者が名を連ねています。
これは、
- 社会的信用を確保する
- 株式募集を円滑に進める
ための、明治企業設立に典型的な構図です。
◾️ 「日清」という社名の意味
社名の「日清」は、
- 日本と清国(中国)
- 東アジアを視野に入れた事業展開
を想起させる名称です。
日清戦争(1894–95)後、日本では「日清」「日韓」「東洋」といった語を冠した企業が相次ぎました。
これは、国内市場にとどまらず、対外進出を意識した企業理念を反映しています。
◾️ 大隈重信の支持
記事末尾にある大隈伯も熱心に此の挙を賛し居る由という一文は、
- 早稲田大学創設者としての後援
- 政治的・社会的影響力の付与
を意味し、この会社が単なる営利事業にとどまらず、早稲田系事業の象徴的存在として構想されていたことを示します。
◾️ 歴史的意義
この記事は、
- 日本の近代金融・保険制度の成熟
- 学閥・人脈を基盤とした企業形成
- 私学が経済界へ影響力を拡大していく過程
を具体的に示す史料です。
政治・外交の陰で、「生活保障」を扱う金融業が静かに社会に根づいていく過程が、よく表れています。

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