(1907年7月22日『報知新聞』)
焼き討ちされた韓国総理大臣・李完用の邸宅は、西山門外(西小門付近)にあった。西小門は南大門と西大門の間に位置する小さな門で、そこからしばらく進み、左手の坂を上った場所に邸宅が建てられていた。大臣の邸宅としてはそれほど大規模ではなかったが、周囲に家が少なく、景色の良い場所だった。門を入ると塀があり、その右に小門がある。そこを抜けると板塀沿いに進み、客間へ至る構造だった。客間は二部屋に分かれており、一つは板敷きで身分の低い者を応接する部屋、もう一つは主人用の座布団が置かれ、その左右に客用の座布団が並ぶ部屋だった。特別に豪華なものはなく、韓国高官の家に一般的な美しい机や筆記具、小箪笥がある程度であった。客間の奥は夫人の居室など家族の空間で、来客は立ち入れなかった。その他、主人の寝室、衣装部屋、炊事場、使用人部屋などがあった。
今回の焼き討ちは二度目で、最初は1905年(明治38年)12月18日、すなわち日韓協約成立の日だった。当時の李完用は学部大臣で、日韓協約への調印を強く推進した人物であった。そのため反日派から激しく非難され、危害を加えられそうになることもあった。しかし李完用は意に介さず、他の大臣にも協約への賛成を促した。そこで暴徒たちは李完用を焼き殺そうとして邸宅を襲撃したのである。
12月18日未明、300〜400人ほどの暴徒が邸宅を取り囲み、門を破ろうと騒ぎ立てた。家人は恐れて声も出せなかったが、暴徒たちは「李完用の首を持ってきたぞ、受け取らないのか」と叫んだ。夫人は驚いて使用人たちに命じ、門の警備を厳重にした。しかし、気の早い者たちは塀を乗り越えて小門を破壊し、客間に火を放った。逃げ出した使用人が宮中にいた李完用に知らせ、李完用は日本憲兵に保護を要請した。十数名の憲兵がただちに現場に駆けつけ、暴徒を追い散らし、家人とともに消火活動を行ったため、被害は客間だけで済んだという。
この新聞記事は単なる「邸宅襲撃事件」ではなく、1905〜1907年の韓国(当時は大韓帝国)における国家存亡をめぐる激しい政治対立の一場面です。
まず問題となった「日韓協約」とは、一般に「第二次日韓協約(乙巳条約)」と呼ばれるものです。
◾️ 第二次日韓協約
この協約によって日本は韓国の外交権を掌握し、韓国は事実上の保護国となりました。
韓国内ではこれに強い反発が起こりました。特に協約締結に関与した5人は「乙巳五賊(ごぞく)」と呼ばれ、激しい憎悪の対象になりました。
その中心人物と見なされたのが、後に韓国総理大臣となる 李完用 です。
当時の韓国国内には大きく分けて三つの勢力がありました。
- 日本との協調で近代化を進めようとした勢力
- 独立維持を目指す勢力
- 武装抵抗を行う勢力(義兵)
日本側は李完用を「改革派」「現実派」と見ていましたが、多くの韓国人からは「国を売った人物」と受け止められました。
このため李完用は何度も襲撃対象となり、後年(1909年)には実際に刺客に襲われ重傷を負っています。
◾️ まとめ
この記事から読み取れる点は次の通りです。
- 李完用は日本との協力政策の中心人物だった
- 第二次日韓協約によって韓国内で激しい反発が起きた
- 李完用は「親日派の代表」として命を狙われた
- 日本の憲兵が韓国高官を保護していることから、日本の実質的な影響力拡大が見える
この記事は「一人の政治家の邸宅が襲われた事件」ではなく、韓国が主権を失っていく過程の緊張を示す史料と言えます。

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