(1906年12月22日 時事新報)
南清(中国南部)で起きている騒乱は勢いが激しく、容易には鎮圧できない状態にある。ついには巡撫(地方長官)自らが出陣したが、かえって大敗を喫したという。この情報がいつの間にか西太后の耳に入ると、太后は激しく怒り、ただちに賊徒を平定してその罪を償え、との厳命を呉重熹に下した、という噂が流れていた。
そこで記者は、こうした事情について孫逸仙氏が何か知っているのではないかと思い、突然訪問して面会を求めた。案内されるままに四畳半ほどの応接室に通され、初めて孫氏の人物に接した。
孫氏の住まいは牛込の一角、非常に静かな場所にあり、通りに面した門柱には「高野」と書かれた小ぎれいな陶製の表札が掲げられていた。孫氏は背が高い方ではなく、どちらかといえば中背で、やせているとも太っているとも言い難い体つきである。顔は銅色を帯び、頬骨が高く張り、眼には独特の光があった。紫色の毛糸の衣を着て、粗末な縞模様の服をまとい、動作はきびきびとしており、普通の中国人とはどこか異なる印象を与えた。
記者が、突然の訪問で迷惑をかけた非礼を詫びると、孫氏は「あなたは英語が分かるか」と尋ねた。そこで記者が「あなたは日本語が分かるのか」と聞き返すと、「私は日本語は知らない」と、あっさり言い放った。そこで記者は英語で、「最近、南清地方で起きた蜂起は、あなたの配下の者たちによるもので、精良な武器を持ち、ますます勢いを増していると聞くが、事実かどうか」と問いかけた。すると孫氏は怒りが頂点に達したかのように机を叩き、「あなた、我々は暴徒ではない。秩序ある改革派である。にもかかわらず、我々改革派の運動を暴動と呼ぶのは、我々を著しく侮辱するものだ。私はもはやあなたと会談する気はない」と言い、今にも記者をつかみ出しそうな勢いを見せた。記者も体格のよい男であったので、実際につまみ出されることはないだろうとは思ったが、思うところがあって深く謝罪し、話題を変えた。
すると孫氏は次のように語った。「中国は中国人の中国である。中国は中国人によって統治されなければならない。清国政府の腐敗は極限に達している。清国政府は、多くの中国人が日本へ留学するのを、革命の種になるとして嫌がっている。一方でロシアは常に清国宮廷に接近している。もし今後十年以内に日露戦争が再び起きたとしても、日本が中国のために戦ったにもかかわらず、中国は相変わらずロシア側につくだろう。中国は日本と共に行動するだけの知恵を、いまだ持っていないのだ。だから我々改革派の行動は、単に中国のためだけでなく、日本のためにもなるのだ」と、非常な勢いで主張した。記者は「そこまでではあるまい」と思いながら、この気勢をやり過ごし、再訪を約して辞去した。
◾️ 孫逸仙(孫文)の立場
この記事に登場する孫逸仙(孫文)は、後に中華民国の初代臨時大総統となる革命家です。
1906年当時、彼は清朝政府から「反逆者」として追われ、日本に亡命して活動していました。
◾️ 「南清の暴動」とは何か
記事でいう「南清の暴動」とは、
- 広東・広西など中国南部で頻発していた
- 秘密結社や革命派による反清蜂起
を指します。清朝側・日本の一部報道はこれらを「暴動」「一揆」と呼びましたが、孫文自身はこれを組織的な革命運動(改革派)と位置づけており、その認識の違いが記者との激しい衝突として描かれています。
◾️ 日本と中国革命の関係
日露戦争(1904–05)で日本がロシアに勝利したことは、中国の革命派に大きな刺激を与えました。
- 「アジアの国でも帝国に勝てる」という実例
- 多くの中国人留学生が日本で近代思想・軍事知識を学んだ
一方、清朝政府はこれを警戒し、日本留学を嫌っていました。
◾️ ロシアへの警戒と対日観
孫文はこの記事で、
- 清朝は腐敗し、外国(特にロシア)に依存している
- 日本と協調する判断力が清朝にはない
と厳しく批判しています。
彼が「中国革命は日本の利益にもなる」と語るのは、日中が共にロシア帝国主義に対抗すべきだという当時の革命派の戦略的発想を反映しています。
◾️ 記事の意義
この記事は、
- 孫文の肉声に近い思想
- 日本の新聞が亡命革命家を直接取材している事実
- 「暴動」か「革命」かをめぐる認識の対立
を生々しく伝える貴重な史料です。
1906年という辛亥革命(1911年)直前の緊張感をよく示しています。

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