1906年06月14日 実力を失った東京学士会院を廃止し、新たに帝国学士院を設置

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.106

(1906年6月14日 東京日日新聞)
 帝国学士院規程は別項の通り定められたが、これと同時に、東京学士会院規程およびその補則は廃止された。
 伝え聞くところによれば、従来の東京学士会院は、創設当初は欧米諸国のアカデミー制度を模範とし、専ら学術の研鑽に力を尽くして、日本学界の源流となることを目的としていた。ところが年月を経るにつれて、その実質を失い、今日では、ほとんど一部の老学者の名誉を顕彰するだけの機関にすぎないのではないかと思われる状態にまで至っていた。
 そこで今回、名称を改めるとともに、当初の目的を貫徹することを期し、改革が行われた。まず第一に、旧規程では「東京学士会員は、同会院において碩儒(大儒)・有徳の中から推選する」とされていたのを、新規程では「碩儒」に限定した。
 また、従来は院内で各専門学者の研究分野が互いに交錯し、職務の区別が明確でなかったため、これを改めて二部制とし、第一部を文学および社会的諸学科、第二部を理学およびその応用諸学科とした。各部では会員の互選によって部長を定め、部としての統一を図り、さらに委員を選んで、特に必要な学科の調査・研究を行うこととした。
 さらに、海外の同種の学術院と連携し、広く気脈を通じて、日本文化の発展を大いに促進することを目指すという。
 なお、新規程の定めにより、新しい院長および幹事が選任されるまでの間は、加藤弘之および菊池大麓の両氏が、その職務にあたることとされた。

◾️ 東京学士会院とは何か

 東京学士会院は、
  ・明治12年(1879年)に設立
  ・欧米のアカデミー(学士院)を模範
  ・国家の最高学術機関
として構想されました。

 当初の目的は、
  ・学問の水準向上
  ・学界の統合
  ・日本学術の国際的地位向上
でした。

◾️ 「名誉機関」化への批判

 しかし記事が述べるように、
  ・会員の高齢化
  ・研究活動の停滞
  ・実務的・組織的な研究体制の欠如
により、次第に「実際の研究を行わず、名誉称号を与えるだけの場」という批判が強まっていました。

 これは明治後期の、
  ・学問の専門分化
  ・大学制度の発達(帝国大学の拡充)
によって、学術研究の中心が大学へ移ったことも影響しています。

◾️ 帝国学士院設置の意義

 1906年に設置された帝国学士院は、
  ・単なる名称変更ではなく
  ・組織改革・機能強化
を伴うものでした。

 主な特徴は、
  ・文科系と理科系の二部制
  ・部長・委員制度による責任分担
  ・調査研究機能の明確化
  ・国際的学術交流の重視
です。

 これは、
  ・国家が主導して
  ・学術を「国力の基盤」として整備
しようとする明治国家の姿勢を示しています。

◾️ 日露戦争後の国家再編との関係

 1906年は、
  ・日露戦争後
  ・南満洲鉄道設立
  ・鉄道国有化
  ・学術・教育制度の再編
が同時進行した年です。

 帝国学士院の設置も、「戦勝国日本」にふさわしい学術体制の確立という国家的要請の一環でした。

◾️ 加藤弘之・菊池大麓の意味

 加藤弘之(法学・思想)、菊池大麓(数学・教育行政)はいずれも、
  ・明治学界を代表する重鎮
  ・学問と国家行政を結びつけた人物
であり、暫定的な指導者として最適と考えられていました。

◾️ まとめ

 この記事は、明治国家が、名誉的存在にとどまっていた学術機関を改組し、実質的・国際的な学術中枢へと再生させようとした転換点を伝えるものです。

 帝国学士院はその後、日本学術の最高機関として存続し、戦後の日本学士院へと引き継がれていくことになります。

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