(1906年4月22日・萬朝報)
ベルリン電報によると、フランスのピエール・キュリー博士が、パリで轢死したとのことである。博士はソルボンヌ大学の理科教授で、物理学・化学に関して数多くの発見や著作を残した。
とくに、博士によるラジウムの発見は、科学界に大改革をもたらしたもので、新旧の研究を通じても並ぶもののない大発見である。博士は47歳で、今後も多くの科学的貢献が期待されていた人物であり、このような悲しい事故で命を落としたことはまことに惜しまれる。
なお記しておくが、博士の夫人も同じく理学に通じ、現在パリ高等師範学校の理科教授を務めている。ラジウム発見は夫人の熱心な協力によるところが多く、この功績によって昨年末(1905年)にノーベル賞を授与される名誉を得た。
この記事は、ピエール・キュリー(Pierre Curie) の突然の死の直後に報じられた日本の新聞記事である。
■ ピエール・キュリーの死
事故は 1906年4月19日 に発生。
・馬車に轢かれ、馬に踏みつけられて死亡
・享年 46(記事では47歳と報道)
交通事故での突然死であり、世界中の科学界に衝撃が走った。
■ ラジウム発見の実際
実際には、
・ラジウムの発見(1898)
・放射能研究の中心人物
は 夫人のマリ・キュリー(Marie Curie) の功績が非常に大きい。
記事はその点を正確に捉えており、「ラジウム発見は夫人の協力が大きい」と明言している。(現代の評価では、発見の主導者はほぼマリ・キュリーであると考えられている。)
■ ノーベル賞について
・1903年:ピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻はアンリ・ベクレルとともにノーベル物理学賞を受賞
・記事にある「昨年末ノベル賞金」は1905年末の賞金授与を指している(報道が少し不正確だが、マリ夫人の功績を強調している)
■ 日本の新聞での扱いが大きい理由
- 日露戦争の軍事医療に放射線技術が導入され始めていた
→ レントゲン技術、放射性物質は高い注目を浴びていた。 - 明治日本は「科学・文明の象徴」として欧米科学者に強い関心
→ ノーベル賞受賞者は特に注目された。 - ピエール・キュリーは国際的スター科学者
→ 死は大きなニュース価値があった。
■ まとめ
このニュースは、1906年のピエール・キュリー急逝を伝える速報記事だが、同時に、
・マリ・キュリーが実質的な主導者であった
・女性科学者として最初期のノーベル賞受賞者
・夫妻の共同研究の重要性
を明確に伝えている点で、当時の報道としてはかなり正確な部類である。

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