1906年04月17日 蒙古王が東京入り 佐々木安五郎が招いた

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.79

(1906年4月17日・東京朝日新聞)
 日本語・英語の学習と、日本での軍事教育を受けるため、5年間の日本留学を決意した「伊翠(イツイ)蒙古六王」の一人、**特爾属図(トルスート)郡王・拍勒塔(パレタ)**は、門司まで迎えに行った佐々木安五郎氏とともに、昨日16日午前9時、新橋着の列車で東京に到着した。
 王は24歳で、模様入りの紋緞子の上衣に黄色のスカートを着ており、背は高くないが、姿勢や身なりは整っていて、動作は活発で、健康そうに見えた。
 出迎えには、西園寺外相の代理として小西秘書官、清国公使の楊枢氏とその館員、陸軍の木村大佐、小池中佐、木下少尉、通訳官の岩村氏らが来ており、丁寧にあいさつを交わした。プラットホームをゆっくり歩きながらいろいろな話をし、楊公使と同じ馬車に乗って、まず清国公使館に向かった。
 宿泊先は当初帝国ホテルの予定であったが、満室のため愛宕館に変更された。後日、王は**振武館(しんぶかん)**に入学する予定である。
 王は、ちょうど粛親王(しゅくしんのう)の蒙古への出発と同じ時期に旅立った。粛親王の従者は130名余りで、拍勒塔王にも同じように大勢連れることを勧められたが、王はそれを聞き入れず、わずか一人の従者だけを連れており、荷物もわずか2個しかなかった。このことからも、彼の強い決意がうかがえる。

◾️ 「伊翠蒙古六王」とは?

 清朝時代の外モンゴル(現在のモンゴル国)には、「六つの旗(部族)」を治める王(郡王)が6人いた。
 「伊翠蒙古六王」とは、この六王の総称と考えられます。
 記事の「特爾属図郡王 拍勒塔」は、外モンゴルの有力王侯の一人です。1900年代のモンゴル貴族の一部には、ロシアや日本での近代化教育を求めて外遊する動きがあり、拍勒塔王はその一例です。

◾️ なぜモンゴル王が日本に来たのか?

⚫︎背景には日露戦争後の東アジア情勢がある
 1905年の日露戦争の結果、日本は「反ロシアの守護者」としてモンゴルや満洲に影響力を伸ばした
 そのため、清朝の王族・蒙古貴族の中には
  ・日本に軍事教育を学びたい
  ・日本の支援を受けたい
  ・日本の近代化を見習いたい
と考える者が増えました。拍勒塔王の渡日もその流れの中にあります。

◾️ 日本側の思惑 ― モンゴルを通じた対ロシア戦略

 拍勒塔王を迎えた人物の一人、佐々木安五郎
  ・対ロシア工作、蒋介石や孫文とも関わる
  ・清国・モンゴルに強いネットワークを持つ異色の軍事・政治活動家
として知られる人物です。
 彼がモンゴル王を「誘引」したと記事にあるのは、日本がモンゴルの王族を味方に引き込もうとしていたことを示しています。

◾️ 振武館とは?

 **陸軍の武官養成学校(後の振武学校)**で、主に 外国人軍事研修生 を受け入れていました。
 拍勒塔王がここに入学する予定だったのは、日本式軍事教育を身につけて帰国し、勢力拡大を狙う意図が背景にあります。

◾️ 粛親王との対比

 記事にある「粛親王」は清朝王族の名門で、強い権勢を持っていました。彼が130名以上の大人数で移動したのに対し、
  ・拍勒塔王は従者1名
  ・荷物2個
という質素さが強調され、「留学に賭ける覚悟」を対比的に描いています。

■まとめ

 この記事は、日露戦争後、日本がモンゴル貴族を取り込み影響力を拡大しようとした外交戦の一場面 を描いています。外モンゴル王族の若い王が、日本語・英語・軍事教育を学ぶために、ほぼ単身で日本に留学してきたという出来事です。

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