1906年04月02日 竹田宮・朝香宮 両宮家の新設と、宮号が与えられた由来

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.71

(1906年4月2日・萬朝報)
 天皇陛下は深いお考えのもと、このたび 新たに二つの宮家を創設され、北白川宮恒久王殿下には「竹田宮」、久邇宮鳩彦王殿下には「朝香宮」という宮号(宮家の名前)をお与えになった。この件についてはすでに新聞紙上で簡単に触れたが、ここでは宮号の由来について聞き伝えたことを書き記す。
 両殿下のご経歴は改めて述べるまでもないが、国民として記念すべき機会であるため、両宮家の末永い繁栄を祈りつつあらためて記す。
 恒久王殿下 は、故・北白川宮能久王殿下の第一王子で、本年21歳。現在は陸軍騎兵中尉として務めておられる。殿下は親孝行であられ、常に亡父をしのばれている。昨年満洲の戦地におられたとき、暇な折、古い琵琶歌「豪湾入」を侍従武官に朗誦させ、かつて父君が称賛された戦陣での苦労を思い起こし、それを軍人として自らの戒めとされたという。
 鳩彦王殿下 は、故・久邇宮朝彦親王殿下の第8王子で、今年20歳。現在は陸軍中央幼年学校に在学中で、今年卒業すれば近衛第二連隊に配属され、兵士と苦労を分かちあう覚悟でおられるという。健康は非常に優れ、薬を飲んだことがないほどで、性格は温厚・沈着。軽々しく言葉を発することはないが、ときおりユーモアのある冗談を言われて周りを笑わせることもあり、落ち着きの中にも快活さがある。軍人として申し分ない性質を備えておられると評されている。
 さて、天皇陛下が宮号をお決めになる際のことだが、陛下は今後、機会があるごとに、従来の宮号を改め、可能ならば その宮家ゆかりの地名 を用いるようにとのお考えをお持ちである。今回も自ら地理をお調べになり、両宮家の名称をお決めになった。
 「竹田宮」という名は、山城国(現在の京都)の伏見の里付近に「竹田街道」という地名があり、伏見宮家の血統にちなみ命名されたものである。また「朝香宮」については、故・朝彦親王が伊勢神宮の祭主であったことから、伊勢国の「朝香山」にちなんだという説があるが、これは誤りである。朝香山は伊勢ではなく大和(奈良)にあり、その周辺には多くの陵墓がある、帝国と深くゆかりのある土地であるため、その山名を採って命名されたと伝え聞く。

■ 皇室の「宮家」再編が進んだ時期

 この記事は 1906年(明治39年) のものです。これは明治政府が皇室制度を整えていた時期で、皇室の支流にあたる「宮家(みやけ)」の創設・整理が行われていました。
 宮家は、
  ・皇位継承資格を持つ男性皇族の家系
  ・皇室の存続を支える“予備的な家系”
として重要視されていました。
 明治期には 皇族の数を増やし、近代国家の象徴としての皇室の基盤を強化する という政策があり、今回の竹田宮・朝香宮の創設もその流れの一つです。

■ 2. 新しく作られた二つの宮家

 今回新設されたのは以下の二家です。
 ● 竹田宮(たけだのみや)
  初代当主:恒久王(北白川宮家の分家)
  後に、戦後まで続く宮家となり「竹田恒徳」などが著名です。
 ● 朝香宮(あさかのみや)
  初代当主:鳩彦王(久邇宮家の分家)
  朝香宮鳩彦王は後に陸軍軍人として上海事変などでも知られる人物となります。

■ 地名を用いた宮号

 記事では、天皇が地理を自ら調べて宮号を決めたと強調しています。
  ・竹田宮:京都・伏見の「竹田」から
  ・朝香宮:奈良の「朝香山」から(伊勢ではない)
 宮号の命名に地名を用いるのは、皇室の歴史と土地の由緒を結びつける意図がありました。

■ 日露戦争直後の軍人皇族のイメージ強化

 1906年は 日露戦争終結(1905)直後
 当時、
  ・皇族が軍務につき
  ・国民と苦楽を共にする姿
は、帝国日本の「団結」や「軍国的気風」を象徴するものでした。
 この記事で両王を
  ・親孝行
  ・健康
  ・謙虚で沈着
  ・軍人としての覚悟
などと賛美しているのは、当時のメディアが皇室を礼賛し、国家への忠誠を高める役割を担っていたためです。

■ 宮家は1947年に廃止される

 この時に創設された竹田宮・朝香宮は、1947年(昭和22年)の皇室制度改革 により他の11宮家とともに廃絶され、皇籍離脱となりました。現在は民間人の家系として続いています。

コメント