(1月20日付・東京朝日新聞)
凶作地の惨状(福島)
福島地方の凶作地では、救済のための公共工事が各地で始められてはいるものの、その援助は人々のすべてに行き渡ることができず、依然として多くの農民が困窮している。近ごろの厳しい寒風と降雪によって、生活はさらに苦しくなり、ついには郡部(地方の村々)で餓死者の報告が相次ぐ事態となった。
小学校では、登校してきた子どもたちが、互いに他人の弁当を盗んで食べるほどである。このままでは、今後も餓死者・凍死者が続出する恐れがある。また、窃盗や追い剝ぎなどの犯罪も非常に増えており、地域の治安と秩序が崩壊しかねない様相を呈している。
年代と文脈
この記事の日付(1月20日、東京朝日新聞)は、1906年の記事ですが、この時期、日本各地(特に東北地方)では深刻な凶作・寒害・飢饉が頻発していました。
特に福島県・会津地方・岩手・青森などでは、冷害による米・雑穀の不作が続き、農村は極度の貧困状態に陥っていました。
「凶作救済工事」とは
文中に出てくる「凶作救済工事」とは、政府や県が行った公的救済策の一つで、失業・飢餓に苦しむ農民に仕事を与えるために設けられた公共土木事業(道路・堤防・灌漑工事など)です。これは現代でいえば「公共事業による失業対策」にあたります。
しかし実際には予算も限られ、支給される賃金も微々たるもので、「全ての困窮者を救うことはできなかった」と報じています。
福島地方の飢饉
福島県では明治期を通じて、冷害と不作が繰り返されていました。
とくに次の年次が深刻でした:
• 明治29年(1896)〜明治31年(1898):三年連続の冷害
• 明治36年(1903):東北・北陸を中心とする大凶作(米収穫率50%以下)
• 明治38年(1905):日露戦争終結期の物価高と凶作が重なる
この年、福島県では
• 穀物価格の高騰
• 農村の現金収入枯渇
• 食料の欠乏
• 栄養失調・凍死の多発
が相次ぎました。
社会的状況:教育現場にまで及ぶ飢餓
「小学校の如き、登校の生徒互に他の弁当を盗み食ふに至れり」という描写は、当時の惨状を象徴しています。子どもたちが飢えのあまり、学校で他人の弁当を奪い合う——それほどに、地域全体が食糧難に陥っていたことを示しています。
治安の悪化
「窃盗追剝等非常に増加し、安寧秩序漸く破壊せられん」という末尾は、貧困が犯罪に直結していた現実を伝えています。当時、明治政府は「富国強兵」を掲げながらも、農村経済の疲弊に対して十分な政策を取れず、都市部と農村部の格差が拡大していました。新聞はその矛盾を指摘するように、「秩序が崩壊しかねない」という警鐘を鳴らしています。
政策・救済の限界
明治政府は、こうした凶作に際して
• 米の移出制限
• 官米放出
• 救恤(きゅうじゅつ=救済)金の支給
• 公共工事の実施
などを行いましたが、地方への行き渡りは不十分でした。特に農民層は重税(地租)に苦しみ、借金を抱え、地主制度のもとで土地を失う者も多く、社会的には「小作化・貧困化の進行」が深刻化していました。
記事の社会的意義
当時の新聞報道は、都市部の読者に地方の窮状を訴える役割を果たしていました。東京朝日新聞の記事は、単なる地方ニュースではなく、「国家が農民を見捨てている」という批判的ニュアンスを含んでいます。
このような報道が契機となって、慈善団体や地方官による民間救済運動(募金・炊き出し・救護米配給)も各地で展開されました。


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