(1905〈明治38〉年12月29日 官報)
勅令
朕(ちん)、海軍練炭製造所条例を裁可し、ここにこれを公布する。
明治三十八年十二月二十八日
海軍大臣 男爵 山本権兵衛
勅令第283号 海軍練炭製造所条例
第一条 海軍練炭製造所は、山口県下に設置する。
第二条 海軍練炭製造所は、海軍艦政本部(艦船建造・燃料を所管する部署)に所属し、
長門海軍炭山(ながと・海軍直営の石炭採掘場)を管轄し、石炭の採掘および
練炭の製造と供給に関する業務を行う。
第三条 海軍練炭製造所には、本部、採炭部および練炭部を置く。
(以下略)
1. 時期と情勢:日露戦争終結直後(1905年12月)
この記事は明治38年(1905年)12月29日付の官報記事で、日露戦争の講和(ポーツマス条約)締結直後にあたります。この時期、日本海軍は戦時中に大量の石炭を消費しており、燃料確保が極めて重要な課題になっていました。
特に、石炭の質と供給の安定化は、帝国海軍の運用上・戦略上の急務だったのです。
2. 「練炭製造所」とは
ここでいう「練炭(れんたん)」は、現在の家庭用練炭とは異なり、軍艦の燃料として使用する石炭を圧縮・整形した燃料を指します。
石炭をそのまま使うよりも、
• 火力を均一化できる
• 搬送・保管が容易
• 無煙で燃焼効率が高い
といった利点があり、特に蒸気軍艦(石炭焚きボイラー)には欠かせないものでした。
3. 山口県が選ばれた理由
山口県下(特に長門地方)には、長門海軍炭山と呼ばれる海軍直営の石炭鉱山がありました。この炭鉱は、現在の山口県長門市・美祢市一帯(大嶺炭田)に存在し、良質な無煙炭を産出することで知られていました。
したがって、
• 現地で石炭を採掘し、
• その場で練炭を製造して
• 海軍基地(呉・佐世保・舞鶴など)に供給する
という体制を整えるのが狙いでした。これにより、輸送コストの削減と燃料供給の軍直轄化を図ったのです。
4. 海軍大臣・山本権兵衛の意図
この勅令に署名している山本権兵衛(やまもと ごんべえ)は、日露戦争期の海軍大臣であり、後の首相。彼は「海軍の燃料自給体制」を強く主張しており、英国に依存していた石炭輸入を減らすため、国内資源の開発と燃料製造技術の近代化を推進していました。
つまり、この勅令は戦後の海軍再建政策の一環として、山本の主導により打ち出されたものでした。
5. その後の展開
この山口県の練炭製造所は、のちに長門練炭製造所・長門海軍燃料廠などと呼ばれ、昭和初期には石炭から液体燃料(石油代替)を製造する研究も行われました。日本海軍の燃料行政の源流ともいえる施設であり、後の呉海軍燃料廠(広島)や横須賀燃料廠へと発展していきます。


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