(明治44年〈1911年〉11月16日、日本新聞)
日本のマッチの輸出額は、今から五年前には年間でおよそ五百~六百万円ほどであったが、年々増加を続け、九百万円以上に達している。さらに本年(1911年)の上半期だけでも、すでに五百万円を超えており、このまま行けば年間一千万円にも達する勢いである。
しかも、東洋市場(主に中国や東南アジア)における日本製マッチの価格は、他国の製品に比べてはるかに安価であるため、今後さらに需要が拡大する見込みがある。
しかしながら、日本のマッチ業者は資金力が乏しいため、中国商人(清国商人)に経済的に支配される状態となっている。清国商人が買い控えを行えば、業者はやむを得ず安売り(投げ売り)をしなければならず、また少しでも出荷が早いと倉庫保管料を差し引かれるなど、不利な取引を強いられている。その結果、利益は中国商人の独占するところとなり、しかも相場の不安定さのため、現地での信用も損なっている。
このような状況を改善するため、農商務省(現在の経済産業省にあたる役所)は、以前からマッチ業者に対して合同(企業統合・組合結成)を勧めていた。
業者側も、合同に応じる条件として、マッチの製造と販売に関する特許(独占的な利益)を政府が認めるよう求めている。現在、業者たちは全国に委員を派遣して合同運動を進めており、関東方面は北陸・東北地方を担当して順調に成果を上げつつある。この合同運動の進展に伴い、マッチの市場価格も二割前後上昇するなど、相場にも好影響を及ぼしている。
1. 日本のマッチ産業の発展
明治期、日本はマッチ(燐寸)の生産で世界有数の地位を占めました。特に明治30年代以降、スウェーデンやオーストリアなど欧州の製品に匹敵する品質を持つようになり、東アジア・東南アジア市場への輸出が急増しました。記事中の「五年前より年商500万→900万→1000万円」とは、まさにこの輸出拡大期のことを指しています。
主な生産地は、
• 大阪(特に堺・泉州)
• 神戸
• 岡山・倉敷地方
であり、これらが「燐寸王国」と呼ばれていました。
2. 中国商人(清国商人)支配の問題
当時、日本のマッチ業者は小規模な工場が多く、海外輸出の資金や販売網を持っていませんでした。そのため、中国の貿易商(主に上海・天津の商人)に依存し、価格交渉力を持てず、結果的に「清国商人に操られる」と新聞が批判する構図が生まれました。つまり、日本のマッチ業界は「製造は日本」「販売と利益は中国商人」という不均衡な状態にあったのです。
3. 政府の介入と「業者合同運動」
農商務省はこの状況を重く見て、国内マッチ業者の合同(カルテル化・共同出資)を奨励しました。狙いは以下の通りです。
• 統一的な販売ルートを作り、中国商人の影響を減らす
• 生産と価格の調整を行い、投げ売りを防ぐ
• 国際競争力を維持しつつ、利益を国内に還元する
業者側は政府の支援(特許・優遇措置)を求めており、事実、これを契機に**「日本燐寸同業組合」**のような全国的団体が形成されていきます。
4. この記事の意義
この新聞記事は、単なる貿易報道ではなく、明治日本の「産業合理化」や「企業合同運動」(後の財閥形成やカルテル政策につながる)を象徴する内容です。マッチ業界は後に「日本燐寸会社」(のちの大日本燐寸 → 日本マッチ株式会社)へと統合され、国策的に輸出産業として育成されていきました。


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